藤原師成
藤原 師成(ふじわら の もろなり)は、平安時代中期から後期にかけての公卿。藤原北家小一条流、権中納言・藤原通任の長男。官位は正二位・参議。 経歴後一条朝の寛仁5年(1021年)叙爵(従五位下)し、美濃権守に任官する。万寿元年(1024年)侍従に遷ると、右兵衛佐を経て、万寿5年(1028年)従五位上・左近衛少将に叙任された。長元4年(1031年)正五位下に昇叙されるが、長元6年(1033年)従四位下に叙せられて、少将を解かれたとみられる。 その後しばらく任官状況ははっきりしないが、後朱雀朝に入ると長暦2年(1038年)従四位上、長久2年(1041年)正四位下と昇進し、長久3年(1042年)兵部権大輔に任ぜられている。 寛徳2年(1045年)後冷泉天皇が践祚すると、師成は備中守に遷り、天喜4年(1056年)丹後守、康平5年(1062年)近江守と後冷泉朝では受領を歴任。康平6年(1063年)2月に太宰大弐に任ぜられると、同年7月に従三位の叙位を受けて公卿に列し、8月には九州への赴任を賞されて正三位に昇叙されている。 治暦3年(1067年)まで大弐を務め、翌治暦4年(1068年)正月に成功により従二位に叙せられる。同年4月に後冷泉天皇が重態に陥る中で藤原歓子が皇后に冊立されると、師成は皇后宮権大夫に任ぜられた。 後三条朝では昇進の機会がなかったが、白河朝に入ると延久5年(1073年)正二位、承保2年(1075年)参議に叙任されている。 承暦4年(1080年)10月に官職を辞し官界から退く。永保元年(1081年)7月28日に腰の熱物に対して灸治を行っているが[1]、治療の甲斐なく8月5日に出家し、9月1日薨去。享年73。 官歴注記のないものは『公卿補任』による。
系譜『尊卑分脈』による。 脚注参考文献 |
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