藤井 包總(ふじい かねすけ、1850年2月25日(嘉永3年1月14日) - 1925年(大正14年)12月5日[1])は、明治から大正期の日本陸軍軍人、政治家、華族。最終階級は陸軍中将。貴族院男爵議員。
経歴
広島県出身。備後福山藩士の藤井忠治の長男として生まれる。藩校誠之館に学び、門田重長に師事する。明治4年9月15日(1871年10月28日)、陸軍少尉に任官。明治5年3月19日陸軍中尉へ、1874年(明治7年)9月29日陸軍大尉へ、1880年(明治13年)7月21日工兵少佐へ昇進[2]。1885年(明治18年)6月22日工兵中佐に昇進[3]し、同日陸軍士官学校学科提理に就任[4]。1887年(明治20年)6月15日、陸軍幼年学校長に転じ[5]、1889年(明治22年)6月3日、陸地測量部長心得となり[6]、同年9月20日、工兵大佐に昇進した[7]。
1894年(明治27年)8月、陸軍大学校長事務取扱に就任。1895年(明治28年)6月、陸地測量部長に異動し、1896年(明治29年)10月、陸軍少将に進級した。
1904年(明治37年)6月、留守参謀本部事務取扱に就任し、1905年(明治38年)2月、陸軍中将に進んだ。1906年(明治39年)7月6日、予備役に編入[8]。1913年(大正2年)4月1日、後備役となり[9]、1917年(大正6年)4月1日に退役した[10]。
1907年(明治40年)9月21日、その功績により男爵の爵位を授爵し華族となった。1911年(明治44年)7月10日[11]から1925年(大正14年)7月9日まで貴族院議員に在任した[1]。その他、維新史料編纂会委員も務めた。
栄典
- 位階
- 勲章等
親族
脚注
- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』82頁。
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿. 明治36年7月1日調、9頁。
- ^ 『官報』第631号、明治18年8月7日。
- ^ 『官報』第596号、明治18年6月27日。
- ^ 『官報』第1189号、明治20年6月17日。
- ^ 『官報』第1779号、明治22年6月6日。
- ^ 『官報』第1872号、明治22年9月24日。
- ^ 『官報』第6906号、明治39年7月7日。
- ^ 『官報』第201号、大正2年4月4日。
- ^ 『官報』第1401号、大正6年4月6日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、20頁。
- ^ 『官報』第695号、明治18年10月23日。
- ^ 『官報』第2551号「叙任及辞令」1892年1月4日。
- ^ 『官報』第4021号「叙任及辞令」1896年11月21日。
- ^ 『官報』第5547号、明治34年12月27日。
- ^ 『官報』第6979号「叙任及辞令」1906年10月2日。
- ^ 『官報』第1252号「叙任及辞令」1916年10月2日。
- ^ 『官報』第3991号「叙任及辞令」1925年12月12日。
- ^ 『官報』第438号、明治17年12月11日。
- ^ 『官報』第1933号「叙任及辞令」1889年12月6日。
- ^ 『官報』第2828号「叙任及辞令」1892年11月30日。
- ^ 『官報』第3704号「叙任及辞令」1895年11月1日。
- ^ 『官報』第4029号・付録「辞令」1896年12月2日。
- ^ 『官報』第5548号、明治34年12月28日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
- ^ 『官報』第7200号、明治40年7月1日。
- ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
参考文献
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 9784829502730。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房、2001年。ISBN 9784829500026。