葛木香一
葛木 香一(かつらぎ こういち、1890年3月12日 - 1964年9月6日)は、日本の俳優である[1][2][3]。出生名中澤 次良(なかざわ じろう)[4]、本名根石 次郎(ねいし じろう)[1][3]。 人物・来歴1890年(明治23年)3月12日、北海道函館市、現在の十字街交番 (同市豊川町7番13号)のあたりに生まれる[1][3]。同地に仕立屋「丸高」を営む中澤喜三郎・マツ夫妻の次男として中澤家に生まれ、根石家を継ぐ[1][4]。11歳下の弟に俳優光岡龍三郎(本名中澤喜一、1901年 - 1961年)がいる[1][4]。叔父が山崎函館新聞(現在の北海道新聞)の支局長だったが、その縁で、道内亀田郡大野村(現在の北斗市大野地区)に移り、弟は同地で生まれている[4]。 旧制・北海道庁立函館中学校(現在の北海道函館中部高等学校)に在学中から芝居に熱中し、同校を卒業した1905年(明治38年)ころ、函館新派革新劇団に参加して、函館地区を巡業する[1][4]。1917年(大正6年)に東京に移動し、小林喜三郎の小林商会で同社の興行する連鎖劇に出演、天然色活動写真(天活)の映画にも出演、記録に残るもっとも古い作品は、1919年(大正8年)4月30日に公開された田村宇一郎監督の『孝女白菊』で、高勢実乗(当時は高瀬実)と共演している[1][2][5]。同年の同社の解散後は、小林が設立して同社を吸収した国際活映(国活)に移籍する[1][2]。出世作とされるのは、1922年(大正11年)に主演して同年9月1日に公開された、志波西果原作、細山喜代松監督の『雲光の岐に』であり、同作では従来の平凡な新派劇の役柄ではなく、表現主義的セットのなかで精神病者のような役柄を演じ、同作によって葛木は俳優として成長したと言われる[1][2][6]。 1923年(大正12年)、国活が製作を停止すると日活向島撮影所に移籍する[1][2]。同年9月1日の関東大震災によって向島が壊滅すると、京都の日活京都撮影所にその受け皿として新設された第二部(現代劇部)に移籍、翌1924年(大正14年)2月1日に公開された村田実監督の『清作の妻』に主演し、妻・お兼を演じた浦辺粂子とともに注目を浴び、スターになる[1][2]。同年、天活の元経営者のひとり山川吉太郎の帝国キネマ演芸に引き抜かれ、同社の内紛で設立された東邦映画に移るが、1925年(大正14年)には日活大将軍撮影所に復帰、時代劇、剣戟映画に転向する[1][2]。 1933年(昭和8年)、日活を退社してフリーランスとなる[1][2]。当時、日活と配給提携していた片岡千恵蔵の片岡千恵蔵プロダクション、松竹キネマと配給提携していた市川右太衛門の市川右太衛門プロダクション、田中伊助のエトナ映画社、永田雅一の第一映画、マキノ正博のマキノトーキー製作所と京都の撮影所を渡り歩き、1936年(昭和11年)には新興キネマに入社する[1][2]。1942年(昭和17年)1月27日、戦時統合によって大映が設立され、新興キネマは合併して京都撮影所は閉鎖されたが、葛木は同社に継続入社する[1][2]。第二次世界大戦終結後は、引き続き大映京都撮影所(かつての日活京都撮影所、現存せず)に所属、老け役を中心に出演をつづけた[1][2]。『日本映画俳優全集・男優編』(1979年)によれば、1961年(昭和36年)11月1日に公開された三隅研次監督の『釈迦』を最後に引退したとあるが[1]、その後も、1962年(昭和37年)1月21日に公開された川島雄三監督の『雁の寺』[2]、1963年(昭和38年)3月31日に公開された三隅研次監督の『女系家族』にも出演した記録が残っている[3]。 1964年(昭和39年)9月6日、胃がんのため京都府京都市で死去した[1]。満74歳没。 おもなフィルモグラフィすべてクレジットは「出演」である[2][3]。公開日の右側には役名を記す[2][3]。公開日の右側には役名、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[7]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。
脚注
参考文献
関連項目外部リンク |
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