葉山 正雄(はやま まさお、1925年8月1日 - )は、日本の俳優である[1][2][3][4][5][6][7][8]。本名鈴木 正雄(すずき まさお)[1][6]。菅原秀雄、青木富夫、横山準、末松孝行、加藤清一とともに同時代の「松竹蒲田の名子役」と謳われた[1]。
人物・来歴
1925年(大正14年)8月1日、神奈川県横浜市に生まれる[1][2][6]。
満5歳を迎える1930年(昭和5年)、東京府荏原郡蒲田町(現在の東京都大田区蒲田5丁目)にあった松竹蒲田撮影所(のちに大船に移転、現存せず)で子役になる[1]。『腰辨頑張れ』(監督成瀬巳喜男、1931年)、『大人の見る絵本 生れてはみたけれど』(監督小津安二郎、1932年)等に出演した後、1935年(昭和10年)には、新興キネマと提携する入江プロダクションに招かれ、豊島園そばの富士スタジオで撮影された鈴木重吉監督の『貞操問答 高原の巻』『貞操問答 都会の巻』に出演している[1][3][4]。菅原秀雄、「突貫小僧」こと青木富夫、「爆弾小僧」こと横山準、「アメリカ小僧」こと末松孝行、あるいは加藤清一(旧芸名加藤精一)とともに同時代の「松竹蒲田の名子役」として重用された[1]。同撮影所は、1936年(昭和11年)1月15日、神奈川県鎌倉郡大船町(現在の鎌倉市大船)に新設された松竹大船撮影所(現存せず)に全機能を移転することになり、葉山も大船に異動になり、ひきつづき多くの作品に出演した[1][3][4]。十代後半となった第二次世界大戦中も、同撮影所でひきつづき俳優としての活動をつづけ、満19歳のときである1944年(昭和19年)9月14日に公開された、穂積利昌監督の『君こそ次の荒鷲だ』に出演したのが、戦時中の最後の出演記録である[1][3][4]。
戦後は、現代劇を製作することになった松竹京都撮影所に異動し、脇役・端役中心であるが、映画出演をつづけた[1][3][4][6][8]。1979年(昭和54年)10月23日に発行された『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社)の葉山の項には、満23歳となった1948年(昭和23年)8月30日に公開された高木孝一監督の『のらくら海浜騒動』に出演した後は「スクリーンから姿を消した」と記述され、それ以降の記述はないが[1]、実際にはその後も少なくとも13年は同撮影所での俳優活動を続けており[6][7][8]、満36歳のとき、1961年(昭和36年)11月1日に公開された井上梅次監督の『妻あり子あり友ありて』にも出演し、クレジットされている[8]。しかしながらそれ以降の出演記録は残っておらず、以降の消息は不明である。2歳年長の突貫小僧こと青木富夫はすでに2004年(平成16年)に満80歳で亡くなっている状況であるが、葉山が存命であれば、現在満99歳である。
フィルモグラフィ
特筆以外すべてクレジットは「出演」である[3][4]。公開日の右側には役名[3][4]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[8][9]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。
松竹蒲田撮影所
特筆以外すべて製作は「松竹蒲田撮影所」、特筆以外すべて配給は「松竹キネマ」、特筆以外すべてサイレント映画である[3][4]。
松竹大船撮影所
特筆以外すべて製作は「松竹大船撮影所」、すべて配給は「松竹キネマ」あるいは「松竹」、特筆以外すべてトーキーである[3][4]。
- 『有りがたうさん』 : 監督清水宏、1936年2月27日公開 - 小学生、76分尺で現存(NFC所蔵[8])
- 『お芙美の評判』 : 監督佐々木啓祐、解説版、1936年5月8日公開
- 『一人息子』 : 監督小津安二郎、1936年9月15日公開 - その少年時代、82分尺で現存(NFC所蔵[8])
- 『嘆きの母』 : 監督宗本英男、1936年10月15日公開 - 次男三吉
- 『荒城の月』 : 監督佐々木啓祐、1937年2月4日公開 - 健吉、73分尺で現存(NFC所蔵[8])
- 『淑女は何を忘れたか』 : 監督小津安二郎、1937年3月3日公開 - その子藤雄、71分尺で現存(NFC所蔵[8])
- 『恋も忘れて』 : 監督清水宏、1937年7月1日公開 - 支那人の子
- 『花形選手』 : 監督清水宏、1937年10月9日公開 - 田舎の子供、64分尺で現存(NFC所蔵[8])
- 『風の中の子供』 : 監督清水宏、1937年11月11日公開 - 善太、86分尺で現存(NFC所蔵[8])
- 『母の勝利』 : 監督斎藤寅次郎、1937年11月25日公開 - 主演
- 『母と子』 : 監督渋谷実、1938年7月1日公開 - 給仕、88分尺で現存(NFC所蔵[8])
- 『希望に立つ』 : 監督宗本英男、1938年8月25日公開
- 『子供の四季 春夏の巻』 : 監督清水宏、1939年1月28日公開 - 善太、70分尺で現存(NFC所蔵[8])
- 『子供の四季 秋冬の巻』 : 監督清水宏、1939年2月2日公開 - 善太
- 『南風』 : 監督渋谷実、1939年2月15日公開 - アパートの子供、72分尺で現存(NFC所蔵[8])
- 『五人の兄妹』 : 監督吉村公三郎、1939年7月20日公開 - 良三の少年時代、93分尺で現存(NFC所蔵[8])
- 『母』 : 監督田中重雄、製作新興キネマ東京撮影所、配給新興キネマ、1939年10月12日公開 - 朝子の子進
- 『波濤』 : 監督原研吉、1939年10月13日公開 - 郷子の弟、100分尺で現存(NFC所蔵[8])
- 『狐』 : 監督渋谷実、1939年10月24日公開 - 欽一、27分尺で現存(NFC所蔵[8])
- 『太平洋行進曲』 : 監督深田修造・曾根千晴、製作新興キネマ東京撮影所、配給新興キネマ、1940年5月15日公開 - 節子の弟三吉
- 『女人転心』 : 監督清水宏、1940年9月5日公開
- 『冬木博士の家族』 : 監督大庭秀雄、1940年10月31日公開 - 辰郎、70分尺で現存(NFC所蔵[8])
- 『お絹と番頭』 : 監督野村浩将、1940年12月31日公開 - 向井家の人々、73分尺で現存(NFC所蔵[8])
- 『戸田家の兄妹』 : 監督小津安二郎、1941年3月1日公開 - 千鶴の子良吉、105分尺で現存(NFC所蔵[8])
- 『まごころの歌』 : 監督蛭川伊勢夫、1941年6月22日公開 - 弟次郎
- 『父ありき』 : 監督小津安二郎、配給映画配給社、1942年4月1日公開 - 北陸の中学生、87分尺で現存(NFC所蔵[8])
- 『母子草』 : 監督田坂具隆、製作松竹太秦撮影所、配給映画配給社、1942年6月4日公開
- 『家に三男二女あり』 : 監督瑞穂春海、配給映画配給社、1943年3月11日公開 - 少年時代太郎、6分尺の断片のみが現存(NFC所蔵[8])
- 『むすめ』 : 監督大庭秀雄、配給映画配給社、1943年5月13日公開 - 勇吉、77分尺で現存(NFC所蔵[8])
- 『愛機南へ飛ぶ』 : 監督佐々木康、配給映画配給社、1943年9月10日公開 - 菅沼真雄
- 『秘話ノルマントン号事件 仮面の舞踏』 : 監督佐々木啓祐、製作松竹下加茂撮影所、配給映画配給社、1943年10月28日公開 - 弟伸二郎
- 『天狗倒し』 : 監督井上金太郎、配給映画配給社、1944年2月10日公開 - ジム、67分尺で現存(NFC所蔵[8])
- 『不沈艦撃沈』 : 監督マキノ正博、配給映画配給社、1944年3月23日公開 - 役名不明、93分尺で現存(NFC所蔵[8])
- 『君こそ次の荒鷲だ』 : 監督穂積利昌、配給映画配給社、1944年9月14日公開 - 間宮生徒
松竹京都撮影所
すべて製作は「松竹京都撮影所」、すべて配給は「松竹」である[3][4][6]。
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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