華頂宮博忠王
華頂宮博忠王(かちょうのみや ひろただおう、1902年(明治35年)1月26日 - 1924年(大正13年)3月19日)は、日本の皇族、海軍軍人[1]。 概要博恭王が華頂宮当主であった時の王子。1902年(明治35年)1月26日に誕生した第2王子[1][2]。2月1日、博忠と命名される[2]。博恭王が実系である伏見宮を継承するにあたり、博忠王は僅か2歳(明治37年1月15日附)で華頂宮の家督を継承する[1][3]。学習院初等科時代は、裕仁親王(後の昭和天皇)と同級だった[1]。中等学科4年より海軍兵学校予科へ進む[1]。博忠王の海軍兵学校時代初期、校長は鈴木貫太郎海軍中将であった[4]。 海軍兵学校を卒業(49期)[3]した博忠王は1921年(大正10年)7月16日附で海軍少尉候補生となり、装甲巡洋艦八雲乗組を命じられる(同級の朝融王は出雲乗組)[5]。練習艦隊司令官斎藤半六中将の指揮下で遠洋航海に出発した。 1922年(大正11年)4月4日、練習艦隊は日本(横須賀軍港)に戻った[6][7]。翌日、博忠王、朝融王、斎藤中将ら118名は、宮城の鳳凰の間で摂政宮の裕仁親王(大正天皇皇太子)に拝謁する[6][7]。4月28日、成年式挙行[8][9]。5月25日附で博忠王は海軍少尉に任官した[10][11]。戦艦陸奥乗組を命じられる[11]。 1923年(大正12年)3月30日、海軍砲術学校普通科学生を命じられる[12]。7月12日、海軍水雷学校普通科学生を命じられる[13]。12月1日、海軍水雷学校普通科学生を卒業し、長良型軽巡洋艦五十鈴乗組を命じられる[14]。当時の五十鈴艦長は、のちに条約派として父の博恭王と対立する堀悌吉大佐であった[3]。 1924年(大正13年)3月3日、博忠王は五十鈴乗艦中に発病する[15][16]。当初は軽い頭痛で発熱も無かったが、翌日の4日に状態が悪化したため、3月6日より佐世保海軍病院に入院する[16][注釈 1]。皇太子で摂政宮であった裕仁親王(後の昭和天皇)は、博恭王・博忠王に対し、東宮侍従の土屋正直を見舞のため派遣した[15]。 同日附で、堀悌吉大佐(当時、五十鈴艦長)は軍令部出仕となり、市村久雄大佐(当時、軽巡龍田艦長)が五十鈴艦長に任命される[18][注釈 2]。 3月13日午前2時55分より意識が朦朧となり、やがて自然排尿もできず食事も摂れなくなった[16]。18日夜に昏睡状態となった[16]。 3月19日、博忠王は流行性脳脊髄炎のため[19]、危篤状態となる[20]。同日午後6時35分に薨去[1]。22歳没。同日附で博忠王は海軍中尉に進級、大勲位に叙され、菊花大綬章を授与された[20][21]。実父の博恭王(佐鎮長官)は、博忠王の臨終に立ち会ったという[3]。 博忠王の遺体は3月24日午後4時に帰京し、公式に薨去が発表された[1]。官報に掲載された宮内庁告示第15号では24日午後6時35分に薨去したとされている[22]。喪主は弟宮の博信王(博恭王第三王子)[16][1]。3月31日、豊島岡墓地にて斂葬の儀が執行された[23][24]。 博忠王は生涯独身だった為、博忠王の薨去をもって華頂宮家は断絶する。この2年後の1926年(大正15年)12月7日に弟宮の博信王が臣籍降下するにあたり、華頂の姓を下賜され華頂宮の祭祀を継承した[25]。 身長が六尺一寸(185センチメートル)という、当時としては異例の長身だったという[26]。 血縁栄典
経歴
脚注注釈出典
参考文献
関連項目外部リンク
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