范雲范 雲(はん うん、元嘉28年(451年)- 天監2年5月6日[1](503年6月15日))は、南朝宋から梁にかけての官僚・文学者。竟陵八友の一人。字は彦龍。本貫は南陽郡順陽県。従兄は范縝。 経歴范抗の子として生まれた。東晋の平北将軍の范汪の六世の孫にあたり、南朝宋の中書侍郎の范璩之の孫にあたる。父に従って郢州に下向し、沈約や庾杲之らと交友した。 郢州西曹書佐を初任とし、法曹行参軍に転じた。まもなく沈攸之が挙兵して郢城を包囲すると、范雲は城外で沈攸之の兵に捕らえられた。沈攸之に召しだされて語りあったが、范雲は顔色を変えずに自説を述べたので、沈攸之に感心された。翌朝、范雲は沈攸之の信書をもって入城した。城内の人の一部が范雲を殺そうと図ったが、長史の柳世隆が范雲と仲が良かったため、免れることができた。 斉の建元初年、竟陵王蕭子良が会稽郡太守となると、范雲は蕭子良に従った。蕭子良が丹陽尹となると、范雲は主簿として召し出されて、深く信任された。主簿を兼ねたまま南郡王蕭昭業の下で征北刑獄参軍事をつとめた。尚書殿中郎に転じた。蕭子良が司徒となると、范雲は司徒記室参軍事に任じられた。ほどなく通直散騎侍郎の位を受け、荊州大中正を領した。零陵郡内史として出向した。任にあっては清廉で、煩雑な租税や労役を省き、冗費を節減した。明帝により建康に召還され、散騎侍郎の位を受けた。また始興郡内史として出向した。少数民族が散居し、反乱も多い地域であったが、永元元年(499年)、仮節・建武将軍・平越中郎将・広州刺史に転じた。曲江県の豪族の譚儼が県令の徐芸に鞭打たれたのを范雲のせいだと逆恨みして建康に訴え出た。范雲は召還されて獄に下されたが、赦免された。永元2年(500年)、国子博士として起用された。 かつて范雲は竟陵八友として蕭衍と交友があった。永元3年(501年)2月、蕭衍が襄陽で起兵して軍を東下させた。同年(中興元年)3月、蕭衍が和帝を擁立した。10月、蕭衍の軍が建康を包囲したが、このとき范雲は城内にあった。12月に東昏侯が殺害されると、范雲は侍中の張稷の命を受けて蕭衍に対する使者となった。范雲は蕭衍の側近に留められ、軍務に参与した。黄門侍郎に任じられ、沈約と協力して蕭衍を補佐した。まもなく大司馬諮議参軍・領録事に転じた。中興2年(502年)、蕭衍が梁公となると、范雲は侍中となった。ときに蕭衍は南朝斉の東昏侯の妃の余氏を自分の後宮に入れようとした。范雲は王茂とともに蕭衍の寝室に入り、漢の高祖が関中に入ったときの故事を引いて蕭衍を諫めた。范雲は疏令により余氏を王茂に与え、蕭衍はその意を察してこれを許した。 同年(天監元年)4月、蕭衍が梁の武帝として即位すると、范雲は散騎常侍・吏部尚書に転じた。建国を助けた功績により霄城県侯に封じられた。武帝は范雲を信任して、その上奏の多くが採用された。蕭統が皇太子に立てられると、范雲は本官のまま太子中庶子を兼ねた。 天監2年(503年)1月、吏部を領したまま尚書右僕射に転じた。しばらくして武帝の命令に反して人を用いたことから、吏部を免じられたが、僕射に留任した。5月丁巳、死去した。享年は53。侍中・衛将軍の位を追贈された。諡は文といった。文集30巻があった。 子の范孝才が後を嗣ぎ、官は太子中舎人に上った。 人物・逸話
脚注伝記資料 |
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