総社二子山古墳
総社二子山古墳(そうじゃふたごやまこふん)は、群馬県前橋市総社町植野にある古墳。形状は前方後円墳。総社古墳群を構成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている(指定名称は「二子山古墳」、史跡「総社古墳群」のうち)[1][2]。 概要
群馬県中部、榛名山東南麓・利根川西岸の前橋台地上に築造された古墳である。江戸時代に発掘され副葬品が出土しているほか、1967年(昭和42年)に実測調査が、近年に発掘調査が実施されている。 墳形は前方後円形で、前方部を西方向に向ける。墳丘は2段築成[3]。墳丘長は89.9メートルを測り、総社古墳群では最大規模になる[4]。墳丘外表では葺石・埴輪が認められる[3]。また墳丘周囲には周濠が巡らされる[4]。埋葬施設は後円部・前方部の基壇上における各1基の両袖式の横穴式石室で、いずれも南方向に開口する(現在は後円部石室は崩落)。後円部石室は群馬県内で最大級の規模の石室として注目されるほか、前方部石室は江戸時代に発掘され、優美な頭椎大刀の出土が知られる(現在は所在不明)。石室内からは、その他の副葬品として鉄刀・刀子・勾玉・鈴釧・須恵器(脚付長頸壺)などが出土している。 築造時期は、古墳時代後期の6世紀後半頃と推定される[3]。総社古墳群では王山古墳または王河原山古墳に後続し、愛宕山古墳に先行する時期に位置づけられる。総社古墳群では最大規模の古墳であり、総社地域が古代上毛野地方(上野国)の政治的・文化的中心となる過程を考察するうえで重要視される古墳になる。被葬者は明らかでないが、豊城入彦命(崇神天皇第一皇子)の墓とする伝承があり、かつて陵墓に治定された経緯がある。 古墳域は1927年(昭和2年)に国の史跡に指定されている[5]。 遺跡歴
墳丘墳丘の規模は次の通り[4]。
埋葬施設埋葬施設としては後円部・前方部の基壇上において各1基の両袖式横穴式石室が構築されており、いずれも南方向に開口する。石室の規模は次の通り[6]。
後円部石室は、石材は榛名山二ッ岳噴出の角閃石安山岩の五面削りの切石で、互目積みによって構築される。群馬県内では最大級の規模の石室になる。ただし現在は天井石が崩落する。 前方部石室は、石材は自然石で、乱石積みによって構築される。江戸時代に発掘され、人骨のほか多数の副葬品が出土している。 これらの石室は、後円部石室の構築が先行し、前方部石室の構築が後続すると推測される[4]。
出土品江戸時代の発掘では、前方部石室内の副葬品として頭椎大刀1・鉄刀残片・刀子2・勾玉4・鈴釧1・瓶1・脚付長頸坩1などの出土が藩に届けられている(松平藩日記)[7][6]。特に頭椎大刀は現在では所在不明であるが、詳細な絵図から様々な装飾を施す優美な大刀であったことが知られ、綿貫観音山古墳(高崎市)出土品との類似が指摘される[3]。 現在は、出土品のうち勾玉・金耳環・六鈴釧・鉄鏃・脚付長頸壺が東京国立博物館で所蔵される[6](長頸壺は寛政年間(1789-1801年)の出土と伝える)。 陵墓治定二子山古墳は、かつて陵墓に治定された経緯を持つ。 1871年(明治4年)に陵墓の全国調査が太政官布告として全国に通知された際、群馬県はまず総社二子山古墳について対応した。1874年(明治7年)に群馬県は教部省に上毛野君・下毛野君の始祖とされる豊城入彦命(崇神天皇第一皇子)の墓として二子山古墳を申請して認められ、1875年(明治8年)には教部省から豊城入彦命の墓に墓掌・墓丁がおかれることになった。しかし1876年(明治9年)に宮内省からの給料を巡って村内で紛糾が起こり、墓掌・墓丁が辞職して自然解消に至っている[8]。 その後の再調査によって、大室古墳群の前二子古墳(前橋市西大室町)が豊城入彦命の墓とされ申請されたが、治定には至っていない。 文化財国の史跡
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脚注
参考文献(記事執筆に使用した文献)
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関連項目外部リンク
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