米倉昌言
米倉 昌言(よねくら まさこと)は、江戸時代後期の大名。武蔵国六浦藩8代藩主。官位は従五位下・下野守、丹後守。維新後、六浦知藩事。子爵。六浦藩米倉家11代。 生涯天保8年(1837年)3月9日、7代藩主・米倉昌寿の六男として誕生した。 安政5年(1858年)5月、13代将軍・徳川家定に御目見し、6月に叙任する。万延元年(1860年)6月24日、父が病気を理由に隠居したため、その跡を継ぐ。幕末の動乱期の中では佐幕派として行動し、田安門番や日光祭礼奉行を務めた後の文久3年(1863年)2月に大坂加番、元治元年(1864年)10月には大番頭を務めた。同年の第一次長州征討、慶応2年(1866年)の第二次長州征討にも参加している。 慶応3年(1867年)末、横須賀製鉄所の警護を務めたが、慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に恭順した。明治2年(1869年)6月の版籍奉還で知藩事となり、金沢藩を六浦藩と改称する。明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官となり、明治17(1884年)7月8日、子爵を叙爵[1]。 明治42年(1909年)2月27日、死去。享年73。 家族父母 妻 子女 脚注
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