米倉昌由
米倉 昌由(よねくら まさよし)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。武蔵国金沢藩5代藩主。六浦藩米倉家8代。官位は従五位下・丹後守、主計頭。 略歴安永6年(1777年)11月9日、3000石の旗本である米倉昌盈[1]の次男として誕生。正室は米倉昌賢長女・清凛院。 寛政10年(1798年)、4代藩主・米倉昌賢が死去すると、その婿養子として跡を継ぎ、9月に11代将軍・徳川家斉に御目見し、12月に叙任する。そして馬場先門番、半蔵口門番、日光祭礼奉行、一橋門番などを歴任したが、享和3年(1803年)6月15日に病気を理由に養子・昌俊(水野忠鼎の九男)に家督を譲って隠居した。 文化6年(1809年)5月には剃髪して栄寛斎と号した。文化13年(1816年)12月23日、死去。享年40。 系譜父母 正室
養子 脚注 |