第2期棋聖戦 (囲碁)第2期棋聖戦(だい2き きせいせん) 囲碁の第2期棋聖戦は、1977年(昭和52年)に開始され、1978年1月から第1期棋聖藤沢秀行と、挑戦者加藤釼正本因坊による挑戦手合七番勝負が行われ、藤沢が1勝3敗からの逆転で、4勝3敗で棋聖位を防衛した。 方式
結果各段優勝戦・全段争覇戦各段戦の七段戦では、中川亀三郎門下で63歳のベテラン黒田幸雄七段が優勝し注目を集めた。各段戦優勝者によるパラマス戦では、三段戦優勝の笠井浩二と、五段戦優勝の山城宏が2連勝を果たしたが、九段戦優勝の林海峰と、準優勝の窪内秀知の決勝戦となり、林が優勝した。
最高棋士決定戦大竹英雄名人、加藤釼正本因坊・十段・碁聖、小林光一天元、武宮正樹前本因坊、前回七番勝負敗者橋本宇太郎に、全段争覇戦ベスト4の工藤紀夫王座、林海峰、窪内秀知、本田邦久九段の、計9名が出場。3冠を保持する加藤と、24連勝中で期間中に大竹から名人を奪取した林が決勝三番勝負に進出し、加藤が2度の半目勝により2-1で勝って、挑戦者となった。この挑戦者を当てるファン予想投票では、1位が林、2位が加藤だった。
挑戦手合七番勝負藤沢秀行に加藤正夫が挑戦する七番勝負は、1978年1月から開始された。加藤は第二の師匠と呼ぶ藤沢が第1期棋聖に就いた際に「いま先生と勝負すれば、僕が六分四分で勝つでしょう」と公言し、藤沢も「挑戦者になって出て来い」と言い返していたのが現実になった。また前年の棋聖獲得以後は4勝11敗という成績で「1年を4勝で過ごすいい男」と言われていた52歳の藤沢は、秋以来酒を絶って体調を整えて臨んだが、断酒の禁断症状も残っていた[1]。戦前の予想座談会では、石田芳夫「秀行先生は序盤から中盤にかけては圧倒的に強いでしょう。ただ終盤は私に引き継がないと勝てないね」、山部俊郎「秀行さんは戦いを仕掛けるときとか、戦いが一段落したとき形勢判断することもあるだろうが、一手一手についての判断なんかしない。カンが鋭いだけに気分に左右される。だから、もう碁が終わりだ、なんて考えていると、気づいたときにアレッてなことになる」といったものだった。 第1局は1月12-13日に札幌グランドホテルで行われた。握って藤沢の先番となり、中国流布石で臨んだ。この七番勝負は全局で先番を持った方が中国流布石を用いて、「中国流シリーズ」とも呼ばれる。序盤は黒の優勢で、解説の呉清源も「秀行さん、初日は絶対優勢だね。問題は二日目」と評したが、中盤から少しずつ後退し、白番加藤が1目半勝ちした。 鳥取市での第2局も先番加藤の中国流で始まり、白は中央白をコウでシノぎ互角の形勢だったが、黒3目半勝ちして、加藤が2連勝となった。東京での第3局は先番藤沢が右辺を消しに来た白の打ち過ぎを咎めて優勢となり、そのまま黒中押し勝ちし、1勝を返した。ホテルナゴヤキャッスルでの第4局では白番藤沢が、坂田栄男から秀行ともあろうものが星目級の布石を打ったと言われるほど、右辺の消し方を誤り非勢となったが、左辺の黒を攻めて盛り返し、コウ争いで負けて、黒番4目半勝ち。加藤が3勝1敗と棋聖位に王手をかけた。 藤沢カド番で迎えた第5局は北九州市で行われ、先番藤沢が初めて高中国流を打ち、序盤は優勢に進める。白は右辺の消しの手順も悪く、中央の消しと右辺の逃げ出しを絡める手段に出たが、黒は右辺を小さく取っても優勢と思われたが、逃げ出させたところで封鎖して、取るか取られるかの大捕物となったが、93手目で藤沢は2時間57分の大長考で攻め合いを読み切り、大石を捕獲して131手まで先番中押し勝ち、2勝3敗とした。 第6局は金沢ニューグランドホテルで、先番加藤が高中国流、白はミニ中国流の布石となり、白は序盤非勢から左上隅を捨てて中央に襲いかかる勝負手で、コウで黒が誤り、白が攻勢に立って中押し勝ち、3勝3敗のタイとした。 最終第7局はホテルロイヤル盛岡にで、握り直して加藤が先番、序盤で黒優勢となったが、硬さが出て徐々に白が追いつき、最後に白半目勝ちで、藤沢が棋聖位防衛を果たした。初ものに強いと言われ、第1期名人、天元などを獲得していた藤沢だったが、2期目を防衛したはこれが初めてだった。 決勝七番勝負
(△は先番) ![]() ![]()
3勝3敗で迎えた第7局、異様な雰囲気が予想されて、読売から『囲碁クラブ』誌に観戦を遠慮してほしいと申し入れされた。第5局までは全て黒の中国流と白の二連星という布石だったが、第6、7局と藤沢は4手目小目から白8までのミニ中国流に構えた。白24、26までゆっくりした布石。黒27、29に白30がよくなく、黒35までは黒のわかりやすい布石になった。白30では31にノビて、競り合って打つべきだった。 白は右辺を荒らし、黒は下辺を荒らして、地合いでは黒がよく、大石も巧妙に上辺に連絡して、はっきり優勢の局面。黒17(119手目)では一路左の方がよかった。黒25も下辺26左下のスベリが大きかった。白24、26と下辺が地になってかなり追いついて来た。黒31に白34では黒32で勝てないので、白32は勝負手で、黒33では34に這う手があったが、黒33、白34となって半目勝負となった。その後黒に失着があって、とうとう白の半目勝ちとなった。藤沢、加藤とも半目差を読み切っており、作られないままで終局となった。碁石を片付けた後、藤沢は加藤の手を握り「加藤ちゃん、どうも有り難う」と言った。 ![]() ![]()
加藤3勝1敗の後の第5局、黒の藤沢はシリーズ初めて黒5と高い中国流に構える。白16では左上から左辺に一間に構えておくのがよく、黒17が絶好で、白30まで黒が先手を取って黒31から模様を固めてやや打ちやすい。白48では49に一度出るべきで、黒49となってはこの石のシノギが難しい形になった。白50が1日目の封じ手で、一旦中央を消しながら右下を小さく取らせる作戦に出た。 黒1(51手目)と、右辺を大きく取り込む手段を見せると、再び白4と動き出し、黒も5、7と取りかけに出て、黒15まで封鎖、巨大な詰め碁となった。白42に黒43(93手目)が昼食休憩をはさんで2時間57分の長考となった。白もここで夕食休憩をはさむ2時間近い長考をして、この日の午後に打たれたのは43の1手だけだった。右上の白と隅の攻め合いとなるが、黒1手勝ちになり、黒大石を屠って、黒131手までで加藤の投了となった。 藤沢は1勝3敗から3連勝での逆転防衛で、棋聖位2連覇を果たした。第7局の半目勝ちは「1億円の半目」とも言われた、この七番勝負期間中に体重は15キロ減った。カド番になってからは対局場に向かう途中で、枝振りのいい木を探していたとも語っている。藤沢の旧友でもある田岡敬一は「歴史的逆転劇を演じた藤沢秀行の、凄まじい執念と闘志に関しては、囲碁ジャーナリズムが最高の賛辞をもって書き綴るだろうけど〜、私は、ただ一言だけ秀行にいおう。あなたは、やっぱり、立派な碁打ちだった」と語った[2]。また藤沢には「停年世代の星」といったニックネームも付けられた。 注参考文献
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