立花貞俶
立花 貞俶(たちばな さだよし)は、江戸時代中期の旗本、大名。初め旗本寄合席の立花弾正家2代目、後に筑後国柳河藩の第5代藩主。 立花両家の一つである立花帯刀家当主立花茂高(第2代藩主・立花忠茂の3男・立花茂虎の長男)の子。母は三池藩主立花種長の娘・玉泉院。幼名は友之丞、通称は右京、後に弾正。諱は茂易、清直、貞俶。 生涯元禄11年6月23日(1698年7月30日)、筑後三池郡稲荷村にて立花帯刀家当主の立花茂高の次男として生まれる。兄の立花茂之は柳河藩女流歌人の立花玉蘭の父にあたる。 はじめ大叔父で旗本寄合の立花貞晟の養子となる。正徳3年(1713年)4月1日、将軍徳川家継にお目見えする。享保5年(1720年)12月29日、養父の死去により、家督を相続する。旗本のときは、弾正清直と名乗った。 享保6年(1721年)5月、第4代藩主・立花鑑任が死去した際、その末期養子となって柳川藩主家の家督を継いだ。同年、貞晟の娘を正室として迎えている。なお旗本寄合席の立花弾正家は本藩に吸収となり、以降旗本として再興されなかった。同年閏7月1日、将軍徳川吉宗にお目見えする。同年12月18日、従五位下飛騨守に叙任する。享保8年12月18日、従四位下に昇進する。 藩主としては柳河城の修築に功績がある。享保17年(1732年)、領内が享保の大飢饉に見舞われたとき、幕府に給金を求めている。同年9月28日、一万両を貸し与えられる。また、『享保八年藩士系図』を作成させた。同史料は戦後、柳川市史編集委員会により活字化された。 元文2年(1737年)に国元での奥(藩主側室や子息、女中の居住地)として使われていた柳川城二の丸御殿が手狭になったので、かつての立花鑑虎の別邸に奥を移転し、御花畠と命名したが、これが現在の立花氏庭園である。 延享元年5月25日(1744年7月5日)に江戸にて死去した。跡を貞則が継いだ。享年47。死因は糖尿病とその合併症による重篤化と推測されている。法号は興源院殿慈雲紹蔭大居士。下谷広徳寺に葬られた。 官位履歴偏諱を受けた人物
系譜
脚注参考文献 |
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