立花親信立花 親信(たちばな ちかのぶ、1845年(弘化2年4月[1])- 1916年(大正5年)9月29日[1][2][注釈 1])は、幕末の柳河藩士、明治期の公吏・実業家・政治家。衆議院議員、福岡県会議長。 経歴筑後国山門郡柳川城下(柳河県、三潴県、福岡県[1]山門郡城内村[2]、柳川町を経て現柳川市)で、柳河藩で中老を務めた立花家(家禄350石)に生まれた[3]。1863年(文久3年6月)家督を相続した[3]。1868年(慶応4年)侍頭となる[1][3]。藩の軍政改革で断隊が設けられ、同年4月17日(旧暦3月25日)後断隊の隊長に就任。戊辰戦争で断隊に東京警固が命ぜられ藩主立花鑑寛と共に同年7月31日(旧暦6月12日)大坂を出発し、1869年2月3日(慶応4年12月22日)に帰藩した[3]。1869年(明治2年3月)藩費遊学生として東京の大学校に入学し[注釈 2]、1871年(明治4年2月)まで漢学を学び[3]、同年同月、大阪兵学寮(のち陸軍士官学校)に転じたが[1][2][3]、1872年(明治4年12月)母の病のため退校し帰郷した[3]。 1872年4月22日(明治5年3月15日)三潴県第16区戸長兼里正に就任[1][2][4]。その後、准12等区長を務めた[1][2][5]。1874年(明治7年)8月9日、三潴県12等出仕に発令され庶務課に勤務[1][2][5]。同年の風水害の対応に尽力した[5]。同年12月28日、准12等区長となり第三大区の下妻郡を担当し地租改正を担った[6]。 その後、柳河師範学校長[1][2](のち福岡第一師範学校)、柳河中学校長(現福岡県立伝習館高等学校)に就任[7]。自由民権運動に加わり、岡田孤鹿、十時一郎、由布惟義、野田卯太郎、永江純一らと活動した[7]。1880年(明治13年)11月、第2回国会期成同盟大会に筑後5郡総代として参加した[8]。福岡県会議員に選出され、同常置委員、同議長も務めた[1][2]。 1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙(福岡県第6区)で当選し[9][10]、同年9月の第4回総選挙でも再選され[9][11]、衆議院議員に連続2期在任した[1][2]。 実業界では、旧柳河藩授産所柳河蚕糸業練習所長、柳河軌道社長などを務めた[1][2]。1916年9月、城内村の自邸で死去した[12]。 国政選挙歴
脚注注釈出典
参考文献
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