稲垣武
稲垣 武(いながき たけし、1934年(昭和9年)12月12日 - 2010年(平成22年)8月5日[2])は、日本のフリーランスジャーナリスト。 略歴埼玉県生まれ。終戦時は国民学校5年生で、教科書墨塗りを体験したと述懐している[3]。 兵庫県立神戸高等学校に進み、中学生から高校生にかけてはアグネス・スメドレーやエドガー・スノーによる毛沢東伝『中国の赤い星』を貪り読み(伝説化した)延安時代の毛沢東の詩詞を暗唱できるほどにまでなった[4]。高校一年生時には日本共産党の青年支部民主青年同盟に加盟申請するも不認可となり、市会議員選挙で日本共産党候補の選挙運動に励んだ。しかし選挙後大腸カタルで1週間ほど入院、入院中にフランス & 水野 (1950)を読んだことで退院とともに党活動を中止し[5]、ブリントン, 岡 & 篠原 (1952)を読んだことや、20代間もない時期のハンガリー動乱で共産主義に対する幻想を捨てたという[6]。 京都大学文学部西洋史学科を卒業して1960年(昭和35年)に朝日新聞社に入社。地方支局、大阪本社整理部などに在籍したが、1960年代後半の文化大革命により毛沢東に深く幻滅[4]。1972年(昭和47年)に『週刊朝日』で副編集長を務め、以後出版プロジェクト室幹事、調査研究室主任研究員などを歴任し[1]1989年(平成元年)に定年より繰り上げ退社。 退社後の1991年(平成3年)『諸君!』7月号より『朝日新聞血風録』を4回連載、古巣の朝日新聞の左翼的な体質を批判して世に知られ、同誌11月号に『ソ連に憑かれた人々』を寄稿。更に翌92年7月号から1994年5月号まで続編『「悪魔祓い」の戦後史』を長期連載し進歩的文化人を批判した。1994年に『「悪魔祓い」の戦後史』は文藝春秋で出版、第3回山本七平賞を受賞した(没後の2015年にPHP研究所で新装復刊)。 後に1996年から2008年まで『正論』にて「マスコミ照魔鏡」を定期連載し、大手新聞の記事・報道番組を論評した。関連講演・シンポジウムにも参加した。2010年(平成22年)に多臓器不全のため死去。75歳没[2]。 著作単著
共著
編著
育児
脚注関連文献
関連項目外部リンク
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