秘匿飛行場秘匿飛行場(ひとくひこうじょう)は、太平洋戦争末期に本土決戦のため整備された特攻部隊の発進基地[1]である。 概要太平洋戦争末期に米軍の空襲が激化するなか、航空戦力確保を目的として飛行機・燃料・弾薬の分散・秘匿が行われた結果、被害を軽減することができた。しかし、その反面発進できる時間帯が制限されたり、発進に時間がかかったりするという欠点があった。そこで飛行場そのものを秘匿し、発進基地を確保することにしたのである。それが秘匿飛行場であり、1945年(昭和20年)4月から整備に着手し全国約40カ所に設定する計画であった[2]。そのため戦時中に飛行場をつくっていたという話が全国各地に残っている。
これら秘匿飛行場は敵に発見されないよう偽装[4]を行うことになっていたが、米軍は偵察機からの写真撮影の他、飛行場名の特定とコード番号の付与も行っていた[5][6]。 沖縄における秘匿飛行場建設計画1942年6月のミッドウェー海戦で多くの航空母艦を失った日本海軍は、島嶼群に多数の航空基地を建設し、島を「不沈空母」化することを目指した。沖縄県においては15カ所の飛行場建設計画が進められ[7]、陸海軍は学徒から女性、老人まで住民を徴用し、モッコや馬などの資材や食糧も供出させて建設が進められた。15カ所の飛行場のうち以下の4カ所は小型特攻機用の秘匿飛行場であり、1944年から建設が始められた。しかし、こうした秘匿飛行場がその本来の目的として使用された記録はなく、未完成のまま放棄されたと考えられる。
沖縄守備軍第32軍は、当初は貼り付け特攻作戦に期待をしていたものの、本土からの建設支援は遅れ、また第9師団の転出などから長勇参謀長や八原博通高級参謀は、日本軍の航空作戦重視を懐疑していた。特にフィリピンでの戦い以降は、航空作戦への疑念は不信感へとかわり[8]、持久戦としての地上戦戦備に専念したと思われる。西原飛行場の建設は整地のみで中止となっており、現場の兵士から「敵はフィリピン、南洋から沖縄に向かっているから、どうせ飛行場を造っても意味がない」と動員を解除されたことが証言として残っている[9]。与根秘密飛行場建設でも初等四年から高等二年の学童が徴用され、十分な食事も与えられないままモッコで石を運び、飛行場を偵察機から隠すためガジュマルの葉を集めてまわった。しかし、実際には首里秘密飛行場も与根秘密飛行場も空中写真あるいは米軍公刊戦史の地図にもその場所が特定されることなく、整地すら完了していなかったと思われる。米軍は沖縄戦のさなかに与根小飛行場を建設し、南部激戦地からの負傷者を軽飛行機で後方の野戦病院まで搬送しはじめるが、その滑走路が日本海軍が建設途中だった場所を利用したものかどうかは不明である。 いずれの秘匿飛行場も未完成のまま放置され、使用されることはなかった。陸軍沖縄南飛行場と陸軍沖縄東飛行場は、1944年10月10日 (十・十空襲) などで米軍機が撮影した空中写真をもとに詳細に写真解析され、沖縄戦で米軍に占領されるとただちに工兵隊によって拡張され、米軍の飛行場として使用された。戦後、沖縄南飛行場は現在の米陸軍「牧港補給地区」となり、また沖縄東飛行場は米海軍「与那原飛行場」となった。 脚注
参考文献
外部リンク |