秋山正房
秋山 正房(あきやま まさふさ)は、江戸時代前期の旗本。初めて定火消に任命された人物の一人であり、のちに大目付となった。通称は十右衛門[1]。初名は正俊(まさとし)[2][注釈 1]。 生涯元和9年(1623年)生まれ[2]。父の秋山正重は当時2000石を知行する旗本であった[2](のちに4000石に加増され、最初の大目付4名のうちの1人となった[2])。寛永9年(1632年)11月1日、将軍徳川家光に御目見した[1][3]。 寛永17年(1640年)11月29日、父の死を受けて家督を継承[1]。明暦元年(1655年)4月10日、甲府城守衛の任に当たる[1]。 万治元年(1658年)9月8日、新たに設置された定火消4人のうちの1人に任命される[1][4](相役は近藤用将・内藤政吉・町野幸宣)。同年閏12月28日、布衣を許される[1]。 延宝元年(1673年)1月23日に御持弓頭[1]、天和元年(1681年)10月19日に百人組頭を歴任[1]。また、天和2年(1682年)4月21日には700石の加増を受け、知行高は合計4700石となった[1]。 天和3年(1683年)2月2日、大目付に就任[1][5]。同年12月4日に従五位下・修理亮に叙任。 貞享2年(1685年)7月23日[1]、徳川綱吉の前から退出する時に城中で道を間違え、御休息所に入り込むという失態を犯す[6][2]。重職にありながら粗忽の至りであるとして[1]、正俊は大目付を免職されて小普請入りとされ、閉門処分を受けた[1]。閉門処分は翌貞享3年(1686年)5月8日に解かれた[1]。 元禄4年(1691年)12月29日没[1]、69歳[1]。駒込の養源寺(現在の東京都文京区)に葬られ、以後代々の葬地となった[1]。 系譜特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による[7]。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は、『寛政譜』の記載順。 補足脚注注釈出典
参考文献
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