私は二歳『私は二歳』(わたしはにさい)は、松田道雄による1961年出版の育児書。また、本作などを元に製作された1962年公開の日本映画。 書籍小児科医の松田道雄が朝日新聞関西版に連載していた育児コラムの、『私は赤ちゃん』に続く2冊目の書籍化。1961年に岩波書店から「岩波新書」の一冊として刊行された。挿絵はいわさきちひろ。架空の幼児が「私」の一人称で語る小説的な文体を用い、作中登場人物の医師の言葉を借りて家庭環境や住環境が幼児の心理発達におよぼす影響や、典型的な病気、家庭内事故などの注意点がつづられている。書籍化にあたり書き下ろしの章が大幅に加えられている。 外部リンク(書籍)
映画
『私は二歳』(わたしはにさい)は、1962年(昭和37年)11月18日公開の日本映画。カラー、スタンダードサイズ(1.37:1)、87分[1]。監督:市川崑。英題はBeing Two Isn't Easy[1]。 松田道雄の育児書『私は二歳』『私は赤ちゃん』を和田夏十が脚色[1]。赤ん坊の視点で、子育てに右往左往する両親などの大人たちの日常が描かれる。劇場公開時の併映は『女の一生』。 製作脚色ストーリーや人物設定は、原作の要素に加え、市川崑・和田夏十夫妻の子育て観が多分に盛り込まれている。市川・和田の子育て中の長女が2歳になり、また和田が松田の提唱する子育て論の賛同者だったことから夫妻が映画化を企画。大映側が快諾したことで映画化はスムーズに行われた。 主役の幼児の愛称は、市川・和田の長男の愛称を流用している。 協賛・キャスティング森永乳業が製作に協賛しており、森永牛乳や、同社のロゴのついた服を着た牛乳配達員の出てくるシーンがある。 主役を演じた鈴木博雄は、森永乳業協賛のオーディションで、3200人の幼児の中から選抜されて起用された。 撮影本物の幼児を起用しての撮影は慎重を極めた。照明の光熱で幼児が体調不良にならないよう、撮影画角は当時一般的となっていたシネマスコープでなく、低光量で撮影できるスタンダードサイズを採用した。主役の鈴木ら幼児キャストが怪我をしないよう、雑然とした作業場である撮影所セットの照明やコードの配置に気を配った。また、少しでも危険と判断した撮影では、人形を代用したり、コマ落とし撮影を採用したりした。幼児キャストの撮影は夕方までに終えて夜間撮影を行わなかった。市川はこれらの配慮の結果、本作の撮影期間中、極度の疲労に襲われ、帰宅中の送迎車内でいつも熟睡していたという[2]。 あらすじ東京。団地に暮らす小川夫妻のもとに生まれた太郎は、ある日ベビーベッドを這い出し、ドアを押し開けて階段を登っていく。太郎は昼間に出る白い月が好きで、より近くで眺めようとしていたのだった。母親・千代が気づき、後ろ倒しになって落ちかけた太郎を救い出す。隣家の主婦がベビーベッドや玄関に柵を作るようすすめる。太郎はある日、ベビーベッドの鍵代わりに結わえられていた紐をほどき、ベッドの外に出る。両親は慌てて元に戻すが、太郎はほめられないことを不満に思い、速く成長することを誓う。 太郎は1歳になり、歩けるようになる。両親がお祝いに太郎を動物園に連れて行く。その翌日、太郎は高熱を出し、嘔吐を繰り返す。往診に来た医師は自家中毒(アセトン血性嘔吐症)と診断する。夜泣きがひどく、千代と夫・五郎は診断を疑い、本当の原因をめぐって口論になる。太郎は病気が治ったので遊んでほしく、察しの悪い両親にいら立っていただけだった。 ある日、団地の別の棟の幼い子供がベランダから落下するが、たまたま直下にいた牛乳配達員が受け止めて、無傷で助かる。主婦たちは自発的に、団地内で託児所を運営しようと話し合う。またあるとき、はしかが団地の幼児たちの間で流行するにいたり、千代は団地での子育てに不安を感じ始める。 五郎は一人暮らしとなった老母・いの の世話のため、一家で実家に移り住むことを決める。団地での生活に窮屈さを感じていた千代も賛同する。太郎ははじめて出会ったテレビに興味を持つ。五郎と太郎だけで留守番をしていた日、太郎は五郎の目の届かないところで大きなビニール袋をかぶって遊び、窒息して倒れる。帰宅したばかりの千代といのが見つけ、大事に至らずに済む。 いのが急死する。五郎は、「おばあちゃんは遠くに旅行に出かけた」と太郎に言い聞かせる。直後、太郎が2歳の誕生日を迎える。バースデーケーキを背にして夜空を眺める太郎は、満月にいのの顔を見出す。 登場人物
キャスト順は本作タイトルバックに、役名の一部はキネマ旬報映画データベース[1]に基づく。
スタッフ監督を除く順および職掌は本作タイトルバックに基づく。
評価受賞
批評
外部リンク(映画)脚注関連項目 |