福原信三
福原 信三(ふくはら しんぞう、1883年(明治16年)7月25日 - 1948年(昭和23年)11月4日[1])は、日本の実業家、写真家。資生堂の創業者・福原有信の息子であり、株式会社資生堂の初代社長。弟に写真家の福原路草がいる。 来歴東京府京橋区出雲町(現・東京都中央区銀座)[1]で資生堂薬局(当時)の福原家に生まれる。名前の「三」が示す通り福原家の三男であるが、長男の信一は身体が弱く、また二男の信二も幼少期に他界してしまったため、後継ぎとして育てられた。 中学時代は画家を志し、日本画家の石井鼎湖に入門するなどしたが、父の希望に従い薬学の道に進んだ[1]。千葉医学専門学校(現・千葉大学医学部)を卒業後、1908年(明治41年)に米国・コロンビア大学薬学部に留学[1]。卒業後はドラッグストアや化粧品工場で2年間働き、帰国して兄・信一と二人三脚で資生堂の経営をしていくこととなる。 経営にあたっては、資生堂を本格的に化粧品事業へ移行させ、また1916年(大正5年)には他の企業に先駆けて意匠部(現在の宣伝部)を発足させた。 意匠部では美術学校の学生や若手画家をスタッフにしてポスター、新聞広告、パッケージデザイン、店舗設計などを行った。 「商品をしてすべてを語らしめよ」が口癖で、“商品”を伝える商品名、容器、パッケージすべてに神経を使った。 家業を受継ぎ実業界で活躍する一方で、芸術をこよなく愛する文化人でもあった。資生堂のシンボルマーク「花椿」を考案したのも福原信三で、山名文夫がデザイン図案化した。 写真家としての活動日本近代写真の黎明期に「写真芸術」の確立をめざして活動した。東洋写真会で宮内幸太郎の指導を受けた後、1921年(大正10年)、大阪の上田竹翁の次男である箸尾文雄、写真家の不動健治らとともに「藝術冩眞社」を興した。続いてピクトリアリズムの作風よりも写真本来の機能を重視した方向にむかい「冩眞藝術社」を作る。 1922年には写真集『巴里とセイヌ』を刊行。また『写真芸術』誌を創刊するなど、アマチュア写真家のリーダーとして活躍した。誌上で発表された論文『光と其諧調』(1923年)は多くの写真家に影響を与えた。1924年には日本写真会を結成し会長に就任[1]。1939年(昭和14年)には野島康三とともに国画会に写真部創設などの活動を行った[1]。 著書
関連項目脚注 |
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