神社柳吉
神社 柳吉(かんじゃ りゅうきち、1881年(明治14年)1月 - 1966年(昭和41年)3月24日[1])は事業家。倉敷紡績(クラボウ)の代表取締役を務めた。岡山県総社市出身[2]。 経歴生い立ち岡山県都窪郡清音村(現在の総社市)に神社與平の二男として生まれる。珍しい名字でもある神社(読み:かんじゃ)姓は総社市清音上中島や古地に多い[3]。1895年(明治28年)閑谷黌へ入学し、ここで同級生の大原孫三郎と知り合う。これが後に倉敷紡績へ転職するきっかけとなった[4]。その後、1898年に旧制高梁中学校(現在の岡山県立高梁高等学校)へ進学した。中学時代は清水比庵と同級生であり、親交があった[5]。その後、第六高等学校へ清水と同じく入学[6]した。1905年(明治38年)7月、同高校を卒業し、京都帝国大学法律学科へ入学した[7]。これも清水と同じであり、11年間同級生(中学5年、高校3年、大学3年)であった。 大学卒業後1908年(明治41年)の京大卒業後、文官高等試験行政科に現役で合格した[8]。当時、ほとんどの合格者が東大生であった。柳吉は、国家公務員として台湾総督府専売局に配属された[8]。そのまま、台湾にとどまり、最終的に台南州内務部長にまで出世する[8]。1921年(大正10年)15年務めた公務員を辞めて、40歳で帰郷し、大原孫三郎が社長を務めていた倉敷紡績へ入社した。同社の子会社として設立された倉敷絹織(現在のクラレ)を山内顕、薬師寺主計と共に創成期の発展を支えた[9]。その後、柳吉は1939年(昭和14年)5月[10]、58歳で倉敷紡績の第3代社長に就任した。当時、倉敷紡績は創業家である大原財閥家が社長を務めていたが、大原孫三郎の引退にともない旧知の仲であった柳吉が選ばれた。初めて創業家以外が社長となった。とは言うものの、これは後に第4代社長となる大原総一郎への繋ぎの人事であり短期間であった。1941年(昭和16年)1月には、社長を辞任し、大原総一郎が社長に就任した[10]。 エピソード清水比庵は、書家として同じ岡山出身の良寛と、寂厳を尊敬していた。長年の同級生であった柳吉は、寂厳の高名なコレクターとして知られ、比庵は柳吉の寂厳コレクションについて気にかけていた。岡山にある「きび美ミュージアム」では、神社の所蔵品より譲り受けた約40点の寂厳作品が現存している[5]。 また、兵庫県神戸市東灘区にある神社家住宅は、倉敷絹織の役員であった柳吉が1935年(昭和10年)に建築した木造2階建の自宅であり、主屋は、正面を洋風、奥座敷を日本建築とした和洋折衷住宅である。藤木工務店が設計・施工した[11]。これらの邸宅は、阪神間モダニズムと呼ばれており、重要文化財になった建物も多い。 脚注
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