砥上ヶ原砥上ヶ原(とがみがはら)は、神奈川県藤沢市南部の荒野を指す古地名である。鎌倉時代よりいくつかの和歌に詠まれ、幕末には歌舞伎の科白に出てくることから知られるようになった。砥上が原、とがみが原あるいは砥上原とも表記される。 位置と範囲砥上ヶ原の範囲については諸説がある。相模国高座郡南部の「湘南砂丘地帯」と呼ばれる海岸平野を指し、東境は鎌倉郡との郡境をなしていた境川(往古は固瀬川、現在も下流部を片瀬川と呼ぶ)であることは共通する。西境については、相模川までとするものと引地川までとする2説が代表的である。前者は連歌師、谷宗牧が天文13年(1544年)著した『東国紀行』に「相模川の舟渡し行けば大いなる原あり、砥上が原とぞ」とあるのが根拠とされる。一方、後者は引地川以西の原を指す古地名に八松ヶ原(やつまつがはら)あるいは八的ヶ原があり、しばしば砥上ヶ原と八松ヶ原が併記されていることによる。後者の説を採るならば、砥上ヶ原の範囲は往古の鵠沼村、現在の藤沢市鵠沼地区の範囲とほぼ一致する。 地理的環境縄文時代には縄文海進によって浅い海底だった。縄文末期から次第に陸化が進み、海砂が堆積して海岸平野が形成されていった。北部からは弥生時代以降の遺物が出土する。奈良時代には土甘郷が形成され、神社も祀られるようになった。平安時代末期には北西部に大庭御厨が拓かれたが、大部分は砂丘列の見られる広大な寂しい砂原が拡がっていた。鎌倉時代には幕府に往来する旅人も増えた。砥上ヶ原の寂しさは歌人の心を捉え、いくつかの歌が生まれた。砂原には植生は乏しかったが、クズが目立っていたと思われる。この時代までは境川や引地川は自由蛇行を繰り返し、多くの三日月湖や沼沢地が見られハクチョウ(古名を「クグヒ」といい、鵠の字があてられた。鵠沼の語源とされる)やシギなどの水鳥の楽園になっていたに違いない。江戸時代になっても、南東部は無人地帯だった。享保13年(1728年)、幕府鉄炮方・井上左太夫貞高が享保の改革の一環として湘南砂丘地帯に相州炮術調練場(鉄炮場)を設置したからである。鵠沼村には角打(近距離射撃)打小屋が置かれた。南東部の開発は1887年(明治20年)の鉄道開通がきっかけである。 地名奈良時代の天平7年(735年)、相模国司が「相模国封戸租交易帳」を作成し、中央政府に報告した中に鵠沼付近を表す土甘郷が見られる。この「土甘」は「つちあま」とも「となみ」あるいは「とかみ」とも読む説があるが、「とかみ」ならば、これが砥上ヶ原の語源ということができる。 鵠沼地区東部の住居表示は鵠沼石上だが、ここは古くは砥上とも書かれ、境川の渡し場として発展してきた。弘安8年(1285年)の記録には「石上郷、鎌倉の法華堂領となる」とあり、鎌倉時代には石上の表記も見られたが、皇国地誌によれば天正年間には砥上渡しが石上渡しと呼ばれるようになるとあり、中世までは砥上が一般的だった。1873年(明治6年)施行の区・番組制では「砥上(いしがみ)」の小字が復活したが、1902年(明治35年)開通の江之島電氣鐵道は石上停車場(現在の石上駅とは位置が違う)を設置した。1982年(昭和57年)に制定された住居表示により鵠沼石上とされ、小字砥上は使われなくなったが、1978年(昭和53年)開園の砥上公園の名に残っている。 砥上ヶ原と文化中世鎌倉時代になると、幕府のある鎌倉の上方(かみがた)側にある砥上ヶ原を通過する旅人や、鎌倉から遊山にくる武将なども増えた。
近世文久2年(1862年)初演の河竹黙阿弥による歌舞伎白浪物の名作青砥稿花紅彩画(あおとぞうし はなの にしきえ)の白浪五人男の一人、赤星十三郎の科白に次の下りがある。
近代国文学が体系的に研究されるようになると、歌枕が学問的な論争の元となり、庶民の話題になることにもなった。砥上ヶ原の範囲や鴫立沢の場所なども一例である。
現代
参考文献
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