杉 敏介(すぎ としすけ、1872年7月1日(明治5年5月26日)[1] - 1960年7月2日)は、日本の教育者。第一高等学校、国文教授 - 校長。通称は"びんすけ"。夏目漱石『吾輩は猫である』の津木ピン助のモデル。歌人としても知られ、号は烏山。
経歴
エピソード
- 斗酒を辞せず豪放にて洒脱、全校の輿望を集めた。大きな事件の決断に速なると共に、細かいことにも配慮の行き届く人であった。 (第一高等学校ホームページ)
- 『 (岸信介が)戦犯容疑者に指名されて田布施を離れるとき、長州出身で一高時代の恩師でもある杉敏介から、「名を惜しむなら命を捨てよ」という意味の「自決」を促す短歌を贈られる。岸はこれを拒否して次のような返歌を杉に届けている。「名にかへてこのみいくさ(聖戦)の正しさを来世までも語り残さむ」。』(岩波新書「岸信介」原彬久著121p)
- 神奈川県高座郡藤沢町鵠沼居住中に教え子の高瀬弥一としばしば交流し詠んでいたそうです。
- 「 高瀬彌一君より今も砥上の川袋に鴫あまた降り立つ由を聞きて、西行の跡なめりと思ひて 砥上原いまも鴫立つ澤をおきて いづくに古き跡をたづねむ」 南山歌集より
著作
- 『中等教科 日本文典』1898年 文学社
- 『日本小語典』1900年 内外出版協会
- 『国語講義』1901年
- 『本邦文学史講義』1902年 弘文館
- 『音韻解説仮名遣法』1910年 新潮社
- 『長井雅楽周旋に関する世論に就いて』
著名な教え子
脚注
- ^ 末弘清『山口県人物史』山口県人会、1939年、p.585。
参考文献
- 守随憲治:『真の教育者 杉敏介先生』1973年 新潮社
関連項目
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外部リンク
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前身諸学校長 |
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南校校長 | |
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第一大学区第一番中学長 | |
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開成学校長 | |
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東京開成学校長 | |
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明法頭 |
- 権頭/頭 楠田英世 1871-1873/1873-1875
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司法省書記局学務課長 |
- 第二局法学課長 杉山孝敏 1875-1877
- 学校課長 青山貞 1877-1879
- 学校課長/生徒課長 植村長 1879-1880/1880
- 生徒課長/第七局長 黒川誠一郎 1880-1881/1881-1884
- 書記局学務課長 加太邦憲 1884-1886
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東京法学校長 | |
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東京帝国大学臨時附属医学専門部主事 | |
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東京帝国大学附属医学専門部長 |
- 部長/事務取扱 颯田琴次 1944-1947/1947
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東京大学附属医学専門部長 | |
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