石森延男
石森 延男(いしもり のぶお、1897年6月16日 - 1987年8月14日)は、日本の児童文学者[1]、国語教育学者、教科書編集者。第二次世界大戦前1939年の『咲きだす少年群』で第3回新潮社文芸賞、大戦後は1957年刊行のベストセラー『コタンの口笛』(全2部)で第1回未明文学賞および第5回産経児童出版文化賞を、1962年の『バンのみやげ話』で第1回野間児童文芸賞を受賞。『石森延男児童文学全集』全15巻がある。 来歴・人物1897年(明治30年)、歌人で「われらが愛する北海道」の作詞者でもある石森和男の長男として北海道札幌市に生まれる[2]。中央区南6条西9丁目に生誕地の碑がある。 東京高等師範学校第二部国語国文科に入学[2]、在学中より詩作や口演童話にたずさわる[要出典]。1923年(大正12年)3月に卒業すると、愛知県や香川県で中学校教師を勤める[3]。29歳のとき、1926年(大正15年/昭和元年)から大連の南満洲教育会教科書編輯部に赴任し、小学校教科書の副読本にあたる『満洲補充読本』の改訂と編集にあたる[4][3]。満州唱歌の制作にも深く関わった。1939年(昭和14年)、文部省図書監修官となり、国民学校教科書を編纂、敗戦後には最後の国定教科書の編纂を担当することとなる。 そのかたわら1926年ごろから児童文学の創作を開始し、1939年(昭和14年)『満洲日日新聞』夕刊に連載し、日本帰国後に新潮社から刊行した日中戦争当時の満州国を舞台にした最初の長編小説『咲きだす少年群』[5]で第3回新潮社文芸賞(大衆文芸賞)を受賞[6][7]。 1957年、北海道のアイヌを主人公とした全2部の長編『コタンの口笛』東都書房がベストセラーとなり[8]、第1回未明文学賞、第5回産経児童出版文化賞を受賞した[9]。『コタンの口笛』は1959年に成瀬巳喜男監督により映画化された。 1962年(昭和37年)刊行の『バンのみやげ話』で第1回野間児童文芸賞を受賞。 戦後も昭和女子大学教授をしながら国語教科書の作成にたずさわった。そのほか、1962年(昭和37年)の日本児童文学学会設立にあたり初代会長を務めた。1971年(昭和46年)、自身の児童文学作品をまとめた『石森延男児童文学全集』全15巻(学習研究社)が刊行され[10]、さらに1977年(昭和52年)には、小学校の学年ごとに1巻をあてた『石森読本 : 石森延男児童文学選集』全6巻(小学館)が刊行されている[11]。1981年(昭和56年)には今江祥智、尾崎秀樹、河合隼雄、栗原一登、阪田寛夫とともに児童文学季刊雑誌『飛ぶ教室』の編集委員となり、同誌の創刊に参画した。 1987年(昭和62年)8月14日、90歳で逝去。 札幌市の南西にある藻岩山ロープウェイ乗り場の隣に、石森父子を顕彰する「石森文学広場」があり、父・石森和男の「われらが愛する北海道」碑と並んで石森延男文学碑が建てられている[8][12]。また、札幌市南区の石山南小学校に石森延男文学碑がある[13]。香川県高松市屋島東町にも、かつての教え子たちが建てた句碑がある[14]。 著作や講演記録、旧蔵書などの資料は北海道立文学館に「石森延男文庫」として収められている[15]。 著作
作詞
脚注
参考文献関連項目外部リンク |
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