石川善助石川 善助(いしかわ ぜんすけ、1901年(明治34年)5月16日 - 1932年(昭和7年)6月27日)は、日本の詩人。 生涯宮城県仙台市国分町芭蕉の辻(現・青葉区内)に生まれる[1]。生家は小間物問屋だった[1]。幼少時に柿の木から落下する事故に遭い、片足が不自由となる[2]。1914年(大正3年)に市立仙台商業学校(現・仙台市立仙台商業高等学校)へ入学。商業学校時代から詩作を始める。一方、入学翌年に生家が破産した[1]。 商業学校卒業後、捕鯨基地や藤崎呉服店、出版社など多くの仕事に従事するかたわら、『感触』『北日本詩人』『日本詩人』『詩神』『児童文学』などに詩、童話、評論、エッセイを書き、口誦民話の採録や方言の蒐集、土俗学、民俗学にも深い関心を持っていた。 石川は1924年(大正13年)に出版された宮沢賢治の詩集『春と修羅』に夢中となる。自身が編集する『北日本詩人』に、賢治と交友のある森佐一(後の森荘已池)が寄稿したことで森との交流が発生し、翌年の1925年(大正14年)末に森の案内により花巻の賢治を訪問した[3]。このとき石川は賢治から「『座敷童子』のお話を聞いた」と、書き残した[3][注 1]。初対面であるのにおそろしく話が盛り上がったと後年、森は回想している[5]。石川の賢治への傾倒は、対面によって拍車がかかり、1928年に同人誌に書いた文章では「宮沢さんの行為作品、あの巨いなるものには心から打たれる打たれる」と記した[3]。 石川は、雑誌『児童文学』を主宰、編集した佐藤一英に賢治を勧め、佐藤からの依頼により賢治は『児童文学』に『北守将軍と三人兄弟の医者』と『グスコーブドリの伝記』を寄稿した[6][注 2]。賢治には1932年(昭和7年)1月にも自宅を訪問して面会している[8]。 しかし、1932年6月、東京府大森町(現・東京都大田区大森)で31歳の若さで不慮の死を遂げた。当時、石川は草野心平宅の2階に仮寓していた[2]。死因は、泥酔の末に京浜東北線の線路を歩行中、側溝に転落したことによる溺死だった[1][2]。遺体は死去から10日後に発見された[1]。 没後草野の記述によると、遺体は草野宅の石川の部屋に運び込まれて通夜が営まれ、参列した逸見猶吉、宍戸儀一、吉田一穂、福士幸次郎らは霊前で詩の談義を交わしていたという[2]。牛込の寺院で葬儀が営まれた後、両親ら遺族によって列車で遺骨は仙台に運ばれた[2]。 死後、草野心平、逸見猶吉、宍戸儀一らの手により詩集『亜寒帯』が刊行される。また、やはり遺稿として随筆集『鴉射亭随筆』が刊行された。『鴉射亭随筆』の刊行に際し、宮沢賢治は刊行前に購入代金を小為替で関係者に送り、賢治が死去する約2か月前に賢治の手元に届いた[3][注 3]。同書には賢治の「石川善助を弔む」が附録として掲載された[2]。このほかに刊行された遺稿集として『石川善助童謡集』がある。 1958年(昭和33年)には、仙台市太白区内の愛宕神社に詩「化石を拾ふ」を刻んだ文学碑が建立された[1]。 著書いずれも没後の刊行 脚注注釈
出典
参考文献
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