北守将軍と三人兄弟の医者「北守将軍と三人兄弟の医者」(ほくしゅしょうぐんとさんにんきょうだいのいしゃ)は宮沢賢治の短編小説(童話)。数少ない宮沢賢治の生前発表作品である。佐藤一英編集の季刊誌「児童文学」の創刊号(1931年7月)において発表された。この前の形の作品として「三人兄弟の医者と北守将軍」がある。賢治はこれに10年ほど改稿を重ねこの本篇を完成させた。また作中で兵隊の歌う軍歌は、『唐詩選』巻六の盧綸「和張僕射塞下曲」および同巻七の張仲素「塞下曲二」の前半部を踏まえている。 あらすじ
作品の特徴など賢治は西域を舞台とした童話を複数残した(他に「雁の童子」など)が、その中で本作だけが生前に発表された。賢治は実際に西域を訪れたことはなかったものの、上記の『唐詩選』の翻案にも見られるように、それなりの知識に基づいた上で想像をふくらませてこれらの作品を描いた(ほかに大谷探検隊に関する報道などが影響として推測されている)。 現存する最初の形態(「三人兄弟の医者と北守将軍」の最初の形)ではごく普通の散文体で文章が書かれている。10年にわたる改稿の中で韻文体を経て、現在見られるリズムを伴った散文体の作品を完成させた。 本作が『児童文学』に掲載されたのは、宮城県出身の詩人で賢治と親交のあった石川善助が佐藤一英に賢治の童話を推挽したことがきっかけになったといわれている。このあと賢治は『児童文学』の第2号に「グスコーブドリの伝記」を発表、さらに第3号に「風の又三郎」を掲載する意向であったが雑誌が休刊となり実現しなかった。 なお、作中の詩が『唐詩選』の翻案であることは、裁判官で文芸評論の分野でも活躍した倉田卓次が戦後の早い段階で指摘していたが、広く知られるようになったのは1980年代になってからである[1]。 「四 馬医リンプー先生」において、患部である「馬のはうきのやうな尻尾」をとるのは通常の版[どれ?]で「バーユ―将軍」となっているが、新潮文庫版では、最終手入れの原稿に「するとリンポー先生は」とあるのを参照し「リンプー先生は」となっている[2]。なお、本作の初期形である『三人兄弟の医者と北守将軍』では、「将軍(「プラン・ペラポラン」とされるが異綴が多数ある)」は「兵隊や人民の衛生や外科に尽くし」たという台詞があり[3]、「草木」の医師であるペンクラアネイによって自身の顔についた「猿をがせのやうなもの」を、落とす治療を受けた後、同様のものが付いた部下の兵士(この段階の原稿では99万人であった)へ、その治療法を指示する描写がある。 脚注
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