石井子彭
石井 子彭(いしい しほう)は江戸時代中後期の儒学者。上野館林藩松平武元右筆、道学館教授。『続三王外記』『東都歳時記』を著した。 経歴江戸元文3年(1738年)6月江戸北嶼に服部正之の末男として生まれた[3]。3歳で父を喪い人に預けられ、館林藩士石井高富の養子となった[4]。少年時より藩主松平武元の寵愛を受け[5]、右筆として武元の老中職を補佐した[6]。明和3年(1766年)の大火では財産を顧みず、自著のみを携えて避難した[7]。安永以来岡田寒泉と親交があった[7]。 大内熊耳に古学を学ぶも、時流に従い朱子学に転じ、闇斎学派服部栗斎に接近した[8]。天明6年(1786年)栗斎の紹介で頼春水と知り合い、その帰郷後、代わって江戸に来訪した頼杏坪と交際した[9]。この他、木内石亭、大田南畝[10]・安達清河・熊坂台州・稲葉黙斎等と交流があった[11]。 館林館林に帰郷し[12]、藩校道学館教授[5]兼侍読を務めた[4]。記録方でも繰出し帳作成に従事し、休憩中は同僚が喫煙する間も歌書・稗史類を抜書し、「これが私の煙草だ。」と公言した[4]。 寛政13年(1801年)2月松平武寛長女蓮乗院、享和3年(1803年)2月武元側室貞林院[13]、文化元年(1804年)6月家老松倉惟水[14]、文化2年(1805年)8月武寛正室光寿院[13]、文化4年(1807年)9月藩士平石直右衛門敬勝の墓誌を記した[5]。 文化9年(1812年)8月29日館林字裏宿内伴木通北通(後の清水屋裏)の自邸で死去し[5]、当郷村善長寺観音堂北墓地に葬られた[15]。法号は長寿院徳巖全尭居士[3]。 著作
家族定紋は剣片喰・矢源氏車[15]。 脚注
参考文献
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