大内熊耳
大内 熊耳(おおうち ゆうじ)は江戸時代中期の儒学者、詩文家[3]。陸奥国三春藩(福島県三春町)出身。荻生徂徠門七才子の一人[4]。江戸で秋元子帥に学び、岡崎藩・唐津藩水野家に仕えた。 経歴元禄10年(1697年)生まれ[5]。大内家は陸奥国田村郡山根村(福島県田村市常葉町山根)庄屋を務めたが、宝永4年(1707年)父弥五右衛門の死去に伴い熊耳(くまがみ)村(三春町熊耳)に帰農した[6]。 三春城下の寺院に住み込んで学問を修めた[7]。正徳3年(1713年)平野金華を頼って[8]江戸に出て秋元子帥に師事し、荻生徂徠門下で活動したが、正式には入門しなかった[4]。7,8年後京都に上り、徂徠と敵対する伊藤東涯に会うも、またも入門せず、中国の風教を求めて長崎に渡り、『李滄溟集』を愛読した[9]。徂徠の死後江戸に戻り、徂徠学に立ち帰って服部南郭に兄事し、浅草に塾を開いて成功した[10]。 水戸藩への仕官を志望し、彰考館総裁安積澹泊からの課題として「対封建策」「対礼楽策」[11]他1篇を提出するも、採用されず、門弟立原翠軒・毛利扶揺門弟等を通じて『大日本史』「志」部の編纂を促した[12]。 元文3年(1738年)春[13]家老松本尚炯の推挙で[2]三河岡崎藩江戸藩邸に出仕し[13]、宝暦12年(1762年)9月肥前唐津藩転封後も仕え、明和5年(1768年)5月致仕した[14]。飯田藩堀親長の招聘を断り、外臣として諮問に応じた[2]。 安永5年(1776年)4月28日江戸唐津藩邸で病没し[15]、下谷広徳寺末泰寿院に葬られた[16]。法名は敬心斎宮義山紹勇居士[16]。明治初年泰寿院は桂徳院に合併した[16]。大正12年(1923年)関東大震災で墓碑が倒壊し[16]、寺と共に練馬村に移された[17]。 著書門人家族先祖柏木田監物義久は安達郡小浜城主大内義綱の弟で、柏木田(福島県二本松市長折)に住み、熊耳村に隠居したが、伊達政宗・田村清顕に招かれて根柄村(本宮市稲沢)に移り、根柄氏を称した[23]。義久の長男弾正は家を継がず、田村郡南成田村(三春町南成田)、更に熊耳村に移った[24]。次男源助は奥州仕置の際伊達氏に仕え、延宝年間山根村庄屋となった[25]。
熊耳村樋渡にあった生家は母屋・隠宅・土蔵・厩舎・湯殿・厠・鍛冶場を擁する大邸宅で、佐内屋敷と呼ばれた[29]。菩提寺は船引町笹山大聖寺[30]。 子孫は安達郡杉田村(二本松市杉田)に移ったとも、庶子が山根村庄屋株を買って移住したともいう[26]。 脚注
参考文献
外部リンク
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