相良惟一相良 惟一(さがら いいち、1910年9月27日 - 1987年5月15日)は、日本の教育学者。専門は教育行政学[1]。 東京帝国大学卒業。文部省総務課長、ユネスコ本部学校教育振興部長を経て、1955年京都大学教育学部教授、退官後国際大学都市日本館長、聖心女子大学学長などを歴任した[1]。 経歴1910年(明治43年)9月27日、東京に生まれる(本籍地は福岡県)[2]。 1934年(昭和9年)3月、東京帝国大学法学部法律学科卒業[2][3]。大学では美濃部達吉・田中耕太郎の指導を受ける[3]。同年7月、文部省専門学務局雇員となり、翌1936年(昭和11年)4月、文部省嘱託、外務省文化事業部第二課勤務[4]。 1937年(昭和12年)9月から1938年(昭和13年)12月まで応召、中支派遣部隊に従軍[4]。 1939年(昭和14年)9月、高等試験行政科合格[2]。同月、文部属となる。1940年(昭和15年)4月、鳥取県学務部学務課長。1942年(昭和17年)2月、興亜院(のち大東亜省)事務官。1945年(昭和20年)5月、文部省に復帰[4]。 1945年(昭和20年)7月から8月まで再度応召、第12師団に所属[4]。 1946年(昭和21年)3月、文部省学校教育局専門教育課長[4]。1947年(昭和22年)5月、文部省大臣官房適格審査室主事[4]。 1948年(昭和23年)7月、文部省調査局審議課(のち地方連絡課)課長、教育刷新審議会幹事[6]。 1950年(昭和25年)1月、文部大臣官房福利課長。同年7月、総務課長となり、翌1951年(昭和26年)10月から会計課長を兼務[6]。 1952年(昭和27年)8月に文部大臣が天野貞祐から岡野清豪へ交替した際、天野前文相の側近と見なされて本省を追われることになり、10月、京都大学事務局長に転出[7]。 1954年(昭和29年)4月、パリのユネスコ本部に出向し、ユネスコ教育局学校教育振興部長[6]。 1955年(昭和30年)8月、京都大学教育学部教授( - 1972年7月)[6]。 1961年(昭和36年)7月、文部省大学設置審議会教育学専門委員[6]。 1962年(昭和37年)2月、京都大学より法学博士の学位を授与される[2][8]。 1963年(昭和38年)7月、日本ユネスコ国内委員会委員[6]。 1967年(昭和42年)4月、京都大学東南アジア研究センター所長[9]。 1971年(昭和46年)5月、パリ国際大学都市日本館館長[9]。6月、OECD科学局教育研究革新センター(CERI)常任理事[9]。フランス滞在は1年の予定で教授会の了承を得ていたが、さらに1年の延長となったため、1972年(昭和47年)7月、京都大学教授を辞任[10]。 1975年(昭和50年)3月、聖心女子大学学長( - 1983年3月)[9][11]。 1977年(昭和52年)4月、教科用図書検定調査審議会臨時委員[9]。 1978年(昭和53年)2月、ローマ教皇庁信徒評議会評議員[5]。 1980年(昭和55年)3月、教員の地位に関する勧告適用のためのILO・ユネスコ合同専門家会議委員[12]。 1983年(昭和58年)4月、聖心女子大学名誉教授[9]。勲二等瑞宝章受章[5]。 1987年(昭和62年)5月15日、前立腺癌のため死去[5]。正四位に叙せられる[5]。 学説公教育における教育権の所在について、教育権は親から国家に信託されているとする「国の教育権」論を主張し、日本教職員組合(日教組)などが主張する「教師の教育権」「国民の教育権」論を否定した[13]。ただし、国家の公教育に対する過剰な介入については否定し、国家は政治的・宗教的中立主義をとるべきであって、教条主義的イデオロギーを強制することはあってはならない、としている[14]。この立場から、家永教科書裁判や旭川学テ事件では国側証人として出廷し、高津判決(第一次家永訴訟第一審判決)や旭川学テ事件最高裁判決を、自らの主張が受け入れられたものとして高く評価した[15]。 信仰カトリック系の聖心女子大学の学長を務めたのみならず、自身も敬虔なカトリック信徒であった[10]。 著書
編書
脚注
参考文献
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