相模川佶延相模川 佶延(さがみがわ よしのぶ、1917年7月13日 - 1987年1月22日)は、神奈川県愛甲郡南毛利村(現在の同県厚木市)出身で春日野部屋に所属した大相撲力士。本名は原島 寶(はらじま たから)。身長189cm、体重124kg。得意手は左四つ、突っ張り、上手投げ。最高位は西関脇(1944年5月場所)。 来歴17歳の時に春日野部屋へ入門し、1935年5月場所で初土俵を踏んだ。 1937年5月場所で序二段優勝してから上昇気流に乗り、三段目・幕下・十両をそれぞれ1場所で突破し、1939年5月場所に於いて新入幕を果たした。 長身から繰り出す突っ張りは威力があり、それが上位へ進出する際の大きな武器になった[1]。また、長身力士の専売特許とされる鯖折りで勝利することも多々あった。幕下時代から、「未来の横綱」「太刀山の再来」と騒がれた[1]。 入幕2場所目の1940年1月場所で、新大関の羽黒山に初黒星を付けた。羽黒山とは、通算の対戦成績も4勝7敗と善戦した。1943年1月場所、新小結で10勝5敗、さらに関脇に昇って8勝7敗、11勝4敗と関脇で2場所連続で勝ち越した頃が最盛期。1944年1月場所では、千秋楽に勝てば優勝だった羽黒山を破って小結・佐賀ノ花の優勝に結果的に手を貸してしまったこともあった(当時は優勝決定戦はなく、番付上位の力士が優勝した)。 しかし、得意とした突っ張りが外れると四つ身は上手ではなかった。そのため、弱点を突かれると苦戦し、大関への挑戦は不発に終わった[1]。1947年6月場所の1場所だけ「相模山」と改名したが初日不戦敗ののち休場し、すぐに四股名を「相模川」に戻している[1]。 戦後は一気に衰え、1949年5月場所、十両に落ちたところで現役を引退。年寄名跡を取得できなかったため、引退後は日本相撲協会に残らなかった。 6代目尾上菊五郎が贔屓にした力士としても有名で、「相撲も踊りも、足が大切だ。」と踊りの稽古を相模川に勧めたと伝えられている。その後は、博多でキャバレーを経営するなどした。 1987年1月22日、逝去。享年69。 なお、没年月日は没後平成期になってから判明したもので、本名についても判明前は「原島 實(はらしま みのる)」となっていた。 双葉山の最後の相手1945年6月場所初日、双葉山と対戦して敗れる。双葉山は翌日より休場し、二度と出場しないまま同年11月場所をもって引退したため、相模川は昭和の大横綱の最後の対戦相手として歴史に名を残すこととなった[1]。 早くから打倒双葉を期待されていた相模川だったが、本場所での対決は10戦全敗でついに果たせずに終わった。 主な成績・記録
幕内対戦成績
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。
脚注関連項目 |