畠山義福
畠山 義福(はたけやま よしとも[1][2])は、江戸時代中期から後期にかけての高家旗本。織部[1][2]。 略歴高家旗本・畠山国祐の次男[1]。生母は堀川広益の娘[1]。実兄に政如、実弟に国儔がいる。 一族の高家旗本・畠山義紀(旧能登守護家)の養子となる[1]。 明和4年(1767年)2月15日、10代将軍・徳川家治に初めて御目見する[1]。同6年(1769年)4月5日、20歳のとき、家督を相続する[1]。采地は3,122石余[2][1]。 享和2年(1802年)4月3日死去、享年53。興仁院圓山宗義[3]。 生涯、表高家として過ごし、高家職に就くことはなかった。 家族妻は土屋篤直の養女[1]。長男は義一[1]、次男は義宣(義一の養子)。 脚注参考文献
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