現存天守現存天守(げんそんてんしゅ)とは、日本の城の天守のうち、江戸時代またはそれ以前に建設され、現代まで保存されている天守のことである。これ以外に存在する天守には、復元天守、復興天守、模擬天守がある。 概要現存天守は必ずしも創建当時の建物をそのまま保存されているものということではなく、
などである。またこの括りには存城当時、御三階櫓などと呼ばれていた櫓で「事実上の天守」も含まれている。また、西ヶ谷恭弘のように熊本城宇土櫓と大洲城台所櫓・高欄櫓を小天守と位置づけて現存天守とすることもある[1]。 経緯城の象徴である天守は織田信長に始まったともいわれ、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い前後に築城の最盛期を迎えるが、慶長20年(1615年)の江戸幕府の一国一城令の発令による破却で城郭の数は減少するとともに、武家諸法度により新たな築城や増改築は禁止された。また、江戸時代を通じて災害などによる焼失や倒壊によって、その後は再建されなかった天守もあったため(江戸城・大坂城など)、その数は減少の一途であった。しかも、幕末から明治にかけての戦乱や明治政府の廃城令に伴う撤去、また天災などにより、更に失われた。 1940年代までは20城の天守が現存し、戦前・敗戦直後までは国宝保存法で国宝などの文化財に指定され現存天守と呼ばれていた。これらのうち1945年(昭和20年)に第二次世界大戦でのアメリカ軍による空襲によって水戸城・大垣城・名古屋城・和歌山城・岡山城・福山城・広島城の7城の天守が焼失又は倒壊し、1949年(昭和24年)に失火によって松前城天守が焼失した。現在、文化財として見ることができる天守は主に残る12城の天守のみとなっており、現存12天守と総称される。 現存12天守経緯で述べられているように、20か所の現存天守の内8か所の天守が1940年代に焼失又は倒壊したため、現在は12か所の天守が現存する。いずれも文化財保護法に基づいて重要文化財に指定され、更にこの内五つの天守は国宝に指定されている古建築である。この国宝に指定されている松本城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城の五つの天守は「国宝五城」と呼ばれ(国宝城郭都市観光協議会による名称)、これに対し残る七つの天守を「重文七城」と呼ばれることがある(2015年7月8日に松江城天守が国宝指定される前は、それぞれ「国宝四城」「重文八城」と呼ばれていた)。 これらは一般的に近現代に再建された天守とを比較して「本物の城(天守)」などと言われることがある。これらの維持・保存には、文化庁の指導のもと釘一本に至るまで伝統的な城郭建築の技法を求められるため、多額の経費が必要である。なお、ちょうど12城あるため、カレンダーの背景に使われることもある。 ※以下にそれぞれの天守の概要を挙げる。詳細についてはそれぞれの城の記事を参照のこと。順序は日本100名城に従い、代表紋章は全国城郭管理者協議会による。また、親藩・譜代・外様は明治維新時の区別で、石高は1863年(文久3年)の幕府調べによる。天守の建造年は、現在見られる建物が建造された年を示す。それ以前の建物の建造年や構造についてはそれぞれの城の記事を参照のこと。 弘前城→詳細は「弘前城」を参照
独立式層塔型3重3階の天守[注釈 1]で、現在の現存天守の中では日本最北かつ最東端の地にある。1627年(寛永4年)に落雷により天守を焼失した後、1810年(文化7年)に幕府にはばかって名目上櫓として3重3階層塔型構造で新築したもので、「御三階櫓」と名付けられた。城外側にあたる東・南面には切妻破風を2重に重ねて出窓や出張を設け、窓の代わりに矢狭間を用いた構えであるが、城内側にあたる西・北面には天守建築の特徴の一つである破風がなく、連続した窓があけられている。また、凍結に対応するために鯱や屋根は銅瓦(木型の上に銅板を貼り付けているもの)が用いられている。 松本城→詳細は「松本城」を参照
層塔型5重6階の大天守と3重4階の乾小天守、2重の辰巳附櫓と月見櫓を付属させた複合連結式の天守で、「現存12天守」の中では唯一平城の天守である。破風が少なく、黒塗りの下見板がめぐらされているため、漆黒で簡素な外観であるが、複合連結式であるため見る角度によって異なる印象の意匠を見ることができる。 丸岡城→詳細は「丸岡城」を参照
独立式望楼型2重3階の天守で、最古の現存天守とする説もある。1948年(昭和23年)の福井地震により倒壊したが、元の古材を80パーセント近く使用して1955年(昭和30年)に再建された。飾り外廻縁[注釈 2]と高欄[注釈 3]を有し、「現存12天守」の中では採光がよく室内が明るい点や、凍結で割れてしまう粘土瓦の代わりに石瓦が葺かれている(石の鯱も展示)ことなどの特徴がある。 犬山城→詳細は「犬山城」を参照
複合式望楼型3重4階地下2階の天守で、大入母屋屋根の建築の上に外廻縁側を突出させた小規模な望楼を上げた形状は丸岡城天守と同様である。この天守は最上階に実用的な外廻縁と高欄が付けられ、華頭窓も付けられているが、実際は窓ではなく装飾である。小屋裏となる3階にも唐破風出窓を設けるなどの採光が考慮されている。 彦根城→詳細は「彦根城」を参照
複合式望楼型3重3階地下1階の天守で、幕府の普請(天下普請)による。飾り外廻縁と高欄を持ち、切妻破風、入母屋破風、千鳥破風、唐破風が組み合った、複雑な構造美と輪郭の荘厳な景観の意匠となっている。また、文禄・慶長の役の際に朝鮮半島に造られた倭城にも見られる「登り石垣(竪石垣)」や大名庭園「玄宮園」も現存する。 姫路城→詳細は「姫路城」を参照
望楼型5重6階地下1階の大天守と3重の小天守3基を2重の多聞櫓で連結させた連立式の天守で、日本国内最大の現存天守である。白漆喰で塗られた白亜の外壁と屋根や破風の構成美の上、見る方向により異なった趣となる連立式であり、また桃山後期から江戸初期当時の作事(建築)の技を現代に伝える代表的な城郭と言われている。また、「現存12天守」で唯一、天守内に神社(長壁神社)と厠がある。 松江城→詳細は「松江城」を参照
複合式望楼型5重6階の天守で、内部に井戸がある唯一の現存天守。外装は黒い下見板張りで、最上階には内廻縁と高欄を有し、鯱は木造銅板張である。2階に付けられた石落としなどの装備の点でも極めて実戦的な造りであり、漆黒の武骨荘重な意匠となっている。 備中松山城→詳細は「松山城 (備中国)」を参照
渡櫓は失ってはいるが、複合式層塔型2重2階の天守で、現存天守の中では最も規模が小さい(高さ約11メートル)。現存建築の残る山城の遺構としては、備中松山城の例のみである。天守1階に囲炉裏が現存し、外観は、唐破風出窓や最上階の出格子の窓などにより重厚な意匠を醸し出している。 丸亀城→詳細は「丸亀城」を参照
独立式層塔型3重3階の天守[注釈 1]で、高さは約14.5メートルと弘前城天守(高さ約14.4メートル)の次に低い三重天守であるが、総高66メートルある総石垣の城の頂上に建てられている。一国一城令により廃城になったが、1660年(万治3年)に「御三階櫓」として建造された[注釈 4]。最上重の屋根は平側面(南北面)に入母屋屋根の妻側を向け2重目の北面に向唐破風を一つ付けた外観は建物を大きく見せるためと見た目を重視したためである。 松山城→詳細は「松山城 (伊予国)」を参照
層塔型3重3階地下1階の大天守と2重の小天守1基、2重櫓2基を多聞櫓で連結した連立式の天守で、平山城の比高において最も高い位置にある現存天守(標高約160メートル)である。天守丸の上に築かれた構造の天守は、黒船来航の翌年、将軍徳川家とゆかりのある松平家により復興されたもので、「現存12天守」で唯一、築城主として「葵の御紋」が付されており、また日本では最も新しい日本式城郭建築の天守である。1重・2重を下見板張り、3重目は白漆喰の塗られた外壁に飾りの外廻縁と高欄が付けられている。大天守各階は天井が張られ「床の間」が設けられている。また、「登り石垣(竪石垣)」や登城のための「城山索道」がある。また、愛媛県は現存天守が複数(2ヶ所)ある唯一の都道府県である。 宇和島城→詳細は「宇和島城」を参照
独立式層塔型3重3階の天守で、日本最南・最西端にある現存天守。白漆喰の塗られた外壁や破風と屋根・青銅製の鯱などの調和がよく取れた意匠である。また、「現存12天守」の中で、唯一、城内に障子建具が残っている[注釈 5]。大名庭園である「天赦園」も現存している。 高知城→詳細は「高知城」を参照
独立式望楼型4重6階の天守で、天守台がなく本丸御殿(現存)に入口がある現存天守。1747年(延久4年)に再建されたものであるが白漆喰で塗られた外壁に、2重目の大入母屋や千鳥破風、軒唐破風、実用的な外廻縁と擬宝珠高欄や大きな引戸が付けられた古式で開放的な意匠である。最上重屋根大棟上と2重目大入母屋屋根の大棟上には青銅製の鯱があげられている。 脚注注釈出典参考文献
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