王懐慶
王 懐慶(おう かいけい)は清末民初の軍人。清朝では北洋系、中華民国では北京政府、直隷派に属した。字は懋宣または懋軒。 事績袁世凱配下としての台頭最初は牧童であったが、[2]後に天津武備学堂第2期を卒業する。[3][4]1892年(光緒22年)より聶士成の下に配属され、哨官となった。1900年(光緒26年)7月、義和団の乱で聶が戦死した際に、王懐慶は危険を冒して聶の遺体を回収し、霊柩に納めて聶の故郷である安徽省に送り届けた。この行動を袁世凱に評価され、その部下として登用されている。[2] 1905年(光緒31年)、北洋常備軍騎兵第2協協統となる。1907年(光緒33年)、東三省督署軍務処会弁兼奉天中路統領に任命された。1909年(宣統元年)には、淮軍統領となり、さらに通永鎮総兵に異動した。[2][4]1911年(宣統3年)、新軍第20鎮の王金銘・施従雲らが灤州起義を起こすと、王懐慶はこれに参加しながらも中途で清軍に寝返っている。[3] 1912年(民国元年)1月、王懐慶は灤州都督に推挙された。同年3月には、天津鎮総兵兼密雲鎮守使、6月には薊渝鎮守使、多倫鎮守使をつとめた。1914年(民国3年)9月、冀南鎮守使となる。1915年(民国4年)5月、管外火器営事務と清理京城官戸処督弁も兼任した。[3][4]同年12月、皇帝に即位した袁世凱から二等男に封じられている。[2] 直隷派の一員として袁世凱死後の1916年(民国5年)6月、大名鎮守使に異動し、以後は直隷派の一員となる。[5]1918年(民国7年)2月、幇弁直隷軍務に、翌年5月、歩兵統領兼陸軍第13師師長に任命される。1920年(民国9年)7月の安直戦争では、京畿衛戍司令をつとめ、1922年(民国11年)4月の第1次奉直戦争でも奉天派の背後を脅かして直隷派の勝利に貢献した。これにより同年5月、熱河都統に任命されたが、王は引き続き京畿衛戍司令をつとめる(そのため、同省幇弁の米振標が都統を代理した)。[6][3][4] 1924年(民国13年)の第2次奉直戦争では、王懐慶は討逆軍第2軍総司令や西北辺防督弁を呉佩孚から委ねられた。しかし、王は奉天派の軍に敗北し、下野に追い込まれた。1926年(民国15年)4月、呉が復権して奉天派の張作霖と合作したため、王も北京警衛司令(衛戍司令の改組)に返り咲いた。[2][7][4]しかし、やはり奉天派から圧迫され、同年11月に辞任に追い込まれた。[8] 以後、軍政から引退した王懐慶は、天津に寓居する。日中戦争(抗日戦争)時に日本軍が華北を支配した際には、王は京漢路治安軍総司令に任命された。しかし王は、実際にはこの任命に応じていない。1953年、天津で病没。享年78。[2][9] 注
参考文献
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