玉置源次郎
玉置 源次郎(たまき げんじろう、1871年〈明治4年〉8月4日 - 1940年〈昭和15年〉5月15日)は、岐阜県土岐郡大湫村(現・瑞浪市)出身の教育者。1893年(明治26年)から1927年(昭和2年)までの長きにわたって、付知南尋常高等小学校/付知尋常高等小学校の校長を務めた。 経歴教育者として1871年(明治4年)8月4日、岐阜県土岐郡大湫村(現・瑞浪市)に生まれた[1][2]。父は治右衛門、母はくにであり、源次郎は三男だった[1]。 1892年(明治25年)3月には岐阜県師範学校(岐阜大学教育学部の前身)を卒業し、まずは土岐郡内の尋常小学校に勤めた[1]。1893年(明治26年)5月、25歳で付知南尋常高等小学校の訓導に就任した[1][2][3][4]。 他の教員は元士族の年配者が多かった[4]。付知南尋常小学校に高等科が併置されたばかりであり、師範学校卒の教員が必要とされていたとみられる[1]。1896年(明治29年)4月、教員歴わずか3年で付知南尋常小学校の校長に就任した[1][4]。 当時の付知町には付知北尋常小学校、付知南尋常高等小学校、付知東尋常小学校の3校があったが、1903年(明治36年)4月には3校が統合されて付知尋常高等小学校が発足し、玉置は初代校長に就任した[1][2]。1927年(昭和2年)まで付知尋常小学校の校長を務めた[3]。 晩年退職後にも毎日のように孫を連れて学校を訪れていたという[3]。1940年(昭和15年)5月15日に死去した[1]。1963年(昭和38年)11月3日、有志によって付知町立付知中学校に銅像「玉置先生像」が建立された[2]。元衆議院議長で元文部大臣の松永東が題字を書いている[2]。 人物1914年(大正3年)に岐阜県視学の細川長平が付知町の学校を視察した際、玉置について「社会の事情に精通しているし、単なる校長を以って満足することなく、地方文化の指導者たる気魂と勇気とをもっている」と評した[1]。玉置は探求心のある教育者であり、「付知に玉置あり」と称された[3]。 玉置は身長6尺(約180cm)の大柄な体躯であり、風体もよく豪胆な性格だった[1]。自尊心が強く、酒を飲むと親切心から相手の悪口を言う癖があったため、思わぬ場所に敵を作ることがあった[1]。堅実で学究的な思想の持ち主であり、自由奔放な性格ではなかった[1]。 脚注参考文献
|
Portal di Ensiklopedia Dunia