玉木正之玉木 正之(たまき まさゆき、1952年(昭和27年)4月6日 - )は、京都府京都市出身の日本のスポーツライター。日本ゴルフ改革会議副議長[1]。 概要スポーツライター、音楽評論家として各種媒体や著作で活動。 「還暦を過ぎた2013年からはもう評論してもいい年齢になった」[2]として、ジャーナリストよりもスポーツ評論家の肩書を好み「日本で初めてスポーツライターを名乗った」。 2009年に立教大学大学院非常勤講師と桐蔭横浜大学客員教授、2010年に立教大学非常勤講師と静岡文化芸術大学客員教授、2012年に筑波大学非常勤講師、2013年に石巻専修大学客員教授に就いた。 持論スポーツ議員連盟がその議論の中で、スポーツ産業は米国とのGDP対比で15兆円産業になってもよいはず、そのためにはスポーツ庁を作り、財政赤字の中で予算を付けるためには、東京オリンピック・パラリンピックを招致して、スポーツ振興の気運を盛上げる必要があると2007年頃から考えて、その年の暮れにスポーツ振興に関する国の責務の明確化を提言する報告書[3]に繋がり、2011年のスポーツ基本法の制定、東京オリンピック・パラリンピック誘致運動の開始につながったとの持論を持つ[4]。ただし、この主張は、当時都知事だった石原慎太郎の3選(選挙は2007年4月)に向けて多選批判の声が高まる中、それに抗して選挙の目玉政策とするかのように、既に2005年夏ごろから石原から東京オリンピック招致の話が出てきて[5]、2006年4月には東京都がJOCに正式に立候補意思の表明書を提出し[6]、具体的な誘致活動が始まっていった事実経過とは全く異なっている。 玉木は、この自説を2021年7月21日放送のNHK総合テレビのニュース解説番組「視点・論点」でも披瀝している[4]が、それ以前、2015年8月21日に放送された同番組「視点・論点」に出演した際には、ごく簡単にではあるがオリンピックに触れたものの、このときはこの持論を語っていない[7]。やはりさらに2021年9月12日放送の関西の情報系バラエティー番組「そこまで言って委員会NP」でもこの話を披瀝したところ、番組に同じく出演していた竹田恒泰が「自分がそもそもの理由として父(竹田恆和日本オリンピック委員会元会長)から聞いていた話と異なる」として話をしようとするや、竹田に対して「(それは)違います」と声を張り上げて邪魔し続け、ついに竹田に話をさせなかった。同番組の最後に、、やはり同番組に出席していた舛添要一(石原元都知事の後継となる猪瀨直樹元都知事の次の都知事)は、「自分は石原元都知事と森元首相との間でそろそろ東京でオリンピックをまた開きたいという話が一致からと聞いた」と語っている。 来歴洛星高等学校在学時代はバドミントンでインターハイに出場して卒業後、1972年4月に東京大学教養学部へ入学し、在学中から新聞に音楽・映画評などを執筆して1975年に中退する。ミニコミ出版の編集者などを経てフリーの雑誌記者として小学館GOROの編集に関わり、以後、毎日放送『ちちんぷいぷい』、TBS『サンデージャポン』、NHK『クローズアップ現代』、東海テレビ『スーパーサタデー』などでコメンテーターを務め、小説『京都祇園遁走曲』がNHKドラマ新銀河でテレビドラマ化される。1980年代後半に、親交のある牛島和彦のトレードを「川崎ノスタルジー」のコラムで描いた。 著書スポーツ
音楽
小説
その他
共編著
訳書
出演テレビ番組
ラジオ番組
関連項目脚注
外部リンク |
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