狛江古墳群
狛江古墳群(こまえこふんぐん)は、狛江百塚 (こまえひゃくづか)ともいい[1][2]、東京都狛江市にある群集墳の形態をとる古墳群である。13基の古墳が現存し、12基の円墳、1基の帆立貝形古墳で構成される。かつては70基ほどの古墳が存在したが[3]、宅地造成などによってその殆どが破壊されてしまった。 概要属する古墳は現在の狛江市域の全域に分布する。地質的にいえば全て立川段丘の台地に位置し、その台地に流れていた旧野川[注 1]と清水川を境として和泉支群、猪方支群、岩戸支群の3つに分けられる[3][4]。古墳の形状としてはその殆どが円墳であるが、一部亀塚古墳などのように帆立貝形古墳なども存在する。どの円墳も大抵ブリッジと呼ばれる構造を持っている[5]。古墳群としては群集墳の形態を取り各地に古墳が分散している点や、群集墳にしては成立時期が早いといった点が特徴的である[3][6]。 ほとんどの古墳は古墳時代の5世紀半ばから6世紀半ばまでの約100年間に集中して造られたと考えられている。ただ、猪方支群の一部古墳には7世紀初期から7世紀後半にかけて造られたと推定される古墳も存在する。 当初、発掘調査を主導した國學院大學の大場磐雄教授が提唱した、狛江古墳群を渡来系の集団による古墳群だとする学説が支持されていたが[7]、その後の弁財天遺跡の発掘調査や方形周溝墓の発掘などから、古墳時代以前にも社会が存在していたと考えられるようになり、渡来系の集団による古墳だとする学説は否定されている。現在では埋葬された人物は主に狛江地域の長や畿内王権における権力者たちだったとする学説が通説である[3][8]。 狛江百塚とも呼ばれるように、かつては100基ほどの古墳があったとか、50基を超える古墳があったと言われるが、現在では狛江市内の急速な宅地化により墳丘が残っている古墳はわずか13基と少なく、またわずかな残っている古墳もその一部が切削されているなどして完全な状態で残っている古墳は存在しない。2022年現在、市は現存する古墳を歴史公園として保存する動きを進めている[9]。 「狛江百塚」の名称は、狛江市内の郷土史家であり『狛江町誌』を著した石井正義の手書きの草稿にある「狛江百塚は墳陵の一にして、此地国造国司の墳墓なり。九十九塚とも車塚とも云う。其の数多く故に百塚と呼称す」に由来するとされる[1][10]。なお、ここで言及されている「九十九塚」と「車塚」の異名は現在では使われていない。 歴史縄文・弥生時代1987年に現在の狛江弁財天池特別緑地保全地区近くで行われた調査で、縄文時代以降に作られたとされる敷石住居や方形周溝墓、落とし穴の跡が発掘された[7][8]ことからこの頃からすでに人が定住していたと考えられている。特に方形周溝墓は一辺が18mとかなり大きく、この時にはすでに指導者的立場の人物が存在していて、ある程度社会ができていたことを窺わせる[6][8]。 古墳時代5世紀ごろ - 和泉式土器の標式である和泉遺跡がこの頃造られたと考えられている[11][12]。和泉支群を構成する範囲にあった。この遺跡は古墳ではない。
古代13世紀には、経塚古墳が仏教施設として利用されるようになる[13]。 近世江戸時代後期に出版された書物『新編武蔵風土記稿』に記述が見られる[7]。 現代
代表的な古墳亀塚古墳亀塚古墳(かめづかこふん)は猪方支群に属す、確証のある古墳の中で唯一の帆立貝形古墳である[3]。5世紀末の築造、全長42m、高さ7mとされ、狛江古墳群最大の古墳であり、且つ世田谷区にある野毛の首長墳である狐塚古墳を抑え、5世紀末の南武蔵野における最大の古墳である[7]。 ブリッジの左右から須恵器の甕と土師器が出土している。墳頂の真下に第二木炭槨、前方部先端と墳頂の中間の位置に箱式石棺とそれぞれ呼ばれる2つの埋蔵施設を持つ[19]。木炭槨の副葬品に直径21cmの神人歌画像鏡[注 2]、鈴釧[注 3]と金銅装毛彫金具[注 4]の一部が見つかっている[14]。この金銅装毛彫金具に描かれた人や動物の絵が、高句麗にある古墳の石室内に描かれた壁画と類似していたことから狛江と渡来人を結びつける学説が発表されることになった[注 5][7][20]。 かつては最大の古墳であったが、今日では宅地開発によって墳丘の殆どが失われてしまっている。残った前方部の一部は2020年3月に亀塚古墳公園として整備され、前方部に登ことができる(墳頂部は失われた)[17]。1956年に建てられた「狛江亀塚」と書かれた石碑が残る。なお、この「狛江亀塚」の文字は徳富蘇峰による揮毫である[21]。公園内の園路を囲むツツジの植栽は周溝の位置を示している。年中何時でも公園内に入ることができる[14]。 兜塚古墳兜塚古墳(かぶとづかこふん)は、東京都指定史跡に指定されている和泉支群に属す円墳で、近くに伊豆美神社があることから宮山(みややま)とも呼ばれる[20]。また、稀に甲塚古墳とも表記されるが[22]、誤表記である。墳丘南東側の形状から帆立貝形前方後円墳の可能性も指摘されている。1960年と1976年に調査が行われていて、直径43m、高さ5mとされた。周溝も含めた直径は70mとされ、狛江古墳群2番目の大きさを誇る。 墳頂は標高30.4mとなっていて、狛江市における最高地点である。墳頂には測量などの基準となる三角点が設置されている[20]。 市が土地を公有地とし早期に保護したため、他の古墳に比べかなり保存状態が良好である[7]。そういう経緯から古墳の全域が市有地となっており、いつでも立ち入ることが可能である。門は閉ざされているが施錠はされていない。 調査は1987年と1995年に行われたが、調査は進んでおらず、前述の通り円墳ではなく帆立貝形前方後円墳の可能性や造出付円墳であった可能性がある[5]。「つくりだしつきえんぷん」と読み、前方後円墳ほどは大きくないが古墳に造出部(つくりだしぶ)と呼ばれる突起のようなものを持つ円墳のことをいう。 亀塚古墳との関係性も指摘されているが、あまりよくわかっていない。 経塚古墳経塚古墳(きょうづかこふん)は、和泉支群に属す円墳で、出土した円筒埴輪欠から5世紀後半の築造と推定されている。1996年に行われた調査では周溝が検出され、幅11mから14mほど、深さ約1.5mの周溝だったと考えられている。直径は40mから42m、高さは5mと古墳群の中でもかなり巨大だったと推測されていて、狛江古墳群3番目の大きさである[24]。 かつては泉龍寺の敷地内にあり、墳丘から常滑の蔵骨器などが出土した[25]。 そのため、13世紀以降は仏教寺院「泉龍寺」の一部として再利用されたと考えられている。墳丘の上には仏教の供養塔の一種である板碑が30基ほど建てられ、さらに泉龍寺を再興したとされる奈良時代の良弁僧正の墓とする伝承もある[13][24][26]。もう板碑は古墳にはないが、一部が泉龍寺内に保存されている。
経塚という名前について、良弁僧正が佛経を埋めたことに由来するとの記述がある。
なお、良弁僧正に関する記述はあくまでも伝承であり[13]、2022年現在、史実としての確証は得られていない。詳細は泉龍寺の項を参照されたい。 →詳細は「泉龍寺 (狛江市)」を参照
この古墳へは普段は施錠されているため立ち入ることができないが、東にある集合住宅「狛江ガーデンハウス」の管理人、もしくは泉龍寺の関係者に許可を得ることで墳頂まで登ることができる[26][29]。 古墳一帯は1997年2月に「狛江ガーデンハウス」を建設する際、泉龍寺と住友不動産によって土留めなどの整備がなされた[26]。東京における自然の保護と回復に関する条例に基づき、東京都によって公園緑地として設定されている。 土屋塚古墳土屋塚古墳(つちやづかこふん)は、駄倉明神塚古墳(だぐらみょうじんづかこふん)ともいう、岩戸支群に属する造出付円墳で、2004年の調査によると、直径38.5m、高さは5mの規模で、周溝の幅は9m、深さは1.5mほどである。墳丘は大部分が残存している[2]。墳頂真下の辺りに粘土槨と推定される埋葬施設をもつ[30]。狛江市指定文化財[2][31]。5世紀第3四半期ごろの築造とされる[2]。 特筆すべきは出土した埴輪であろう。周溝から発掘された大量の円筒埴輪は当時墳丘の周りに綺麗に並べられていたと考えられ、出土した円筒埴輪の形は特殊で、透し孔と呼ばれる埴輪中央にある穴が、世田谷区の野毛大塚古墳のものに代表される丸い穴をもったものと、 この古墳の発掘以前まで、関東最大の太田天神山古墳でしか出土しなかった方形透し穴[注 6]をもったものの2種類がほぼ同じ数ずつ出土していて[注 7][30]、埋葬者の権力が如何に絶大なものだったかを窺わせる[2][5]。2004年のマンション建設に伴う緊急調査時、現地を視察した日本考古学会元会長である甘粕健[注 8]は埴輪の上部に畿内の技術である「ヨコハケ」があることを指摘し、 畿内若しくは毛野と何かしらの関係を持つ豪族の墓なのではないかと推定した。その上で、狛江古墳群が他の古墳群よりも強大な力をもっていたことを示していると結論づけている[2][32]。 その他の出土品としては土師器の大型の壺、高坏などがあり[30]、その点から古墳東側にある造出部で墓前祭祀が執り行われていたと推察されている[33]。 マンション建設に伴い、墳丘上に避難経路の設置をする計画が立つなど、当初は大部分の破壊を伴う形で計画が進んでいたが、これに対し地元住民4581筆の市に対策を求める陳情書が市の総務文教委員会に提出され、一部の破壊だけで済んだという経緯がある[34]。 2014年には個人所有となっていた古墳の西側が狛江市に寄付され、古墳全体が市有地となった。翌年には説明板が設置され、さらに6年後の2021年に土屋塚古墳公園として開園した。他の古墳公園とは違い、墳丘に登ることはできないが[注 9][35]、外から柵越しに古墳を観察することができる[18]。ただ、古墳公園整備とともに、以前はあった墳頂の祠と墳丘の鳥居はどちらとも撤去された。 「土屋塚古墳」の名称は、かつて古墳を有していた土屋家から名付けられた。 猪方小川塚古墳猪方小川塚古墳(いのがたおがわづかこふん)は、猪方支群に属す円墳で、規模は直径23m、高さ3mと他の古墳と比べ若干小さいものの、長さ5.2mの凝灰岩の切石積横穴式石室を持つ[15][16][20]ことが特徴的である。石室は発見当時、天井と壁面が一部破損していたものの、かなり良質な状態で残っていた。石室は羨道、前室、玄室で構成されている[16]。 埋葬された人物としては、古墳が周辺の古墳から少し離れた位置に、さらに多摩川を見下ろすことのできる位置に築造されていること[16]、また切石積みの石室が多摩川流域周辺にある古墳でも珍しいことから[16]、畿内王権の序列に位置付けられた狛江郷の長と推定されている[5]。 狛江古墳群最後の古墳であり、2022年現在、これ以降に築造されたと考えられるこの古墳群に属する古墳は確認されていない。一度発見されたあと所在不明となり、もう存在しないと考えられていたが[16]、2012年に住宅開発の際に偶然発見されたという経緯をもつ。墳丘はすでに失われていた[16]。市は即座に2012年度予算に土地買収と古墳の調査に係る予算を計上し、詳細な調査が実施され、土地買収の9年後に古墳公園として開園するに至った(後述)。発掘の後、同年10月14日と21日に見学会が開かれたが、初回の14日には市内外から400人が参加したといい[16]、その古墳に対する関心の高さが窺える。 出土品は土師器、須恵器、刀子、鉄鏃、灰釉陶器や金銅製の耳環などであった[15][16]。 土地買収から古墳公園開園までの9年間、石室などはブルーシートなどで保護され、工事用ガードフェンスで敷地に入れないようになっていたが、2021年に猪方小川塚古墳公園として整備され、石室を見学できるようになった[17]。4月から9月までは9:00から17:00まで、10月から3月までは9:00から16:30までの間は開園していて公園内に入ることができるが、それ以外の時間帯は門が閉ざされていて入ることはできない。12月28日から1月4日までの年末年始の期間中も入ることができない[21][36]。 公園として整備後の2021年3月19日、都内の横穴式石室の中でも保存状態が極めて良好なことなどが評価され、東京都指定史跡に指定された。出土品も併せて指定された[37][38]。 古墳の一覧現存古墳前述の通り、現存する古墳は13基しかない。各古墳の写真はギャラリーの節を参照。なお、所在地の欄で「狛江市」を全て省略している。
非現存古墳前述の通り、狛江には少なくとも50基を超える数の古墳があったことは間違いないが、その正確な数はわかっていない。過去に何度か大規模な調査が行われ、その数や実態を把握するよう努力はされてきたが、資料によって消滅したとする古墳の数もそれぞれである。 寺前東・東和泉の小円墳群など、近年の開発に伴って新たに発見される古墳の遺構も少なくなく、古墳の数は増加し続けている。 以下に記述する古墳は『狛江市の古墳(Ⅰ)•(Ⅱ)』などに一度でも記載された、名前のある古墳とする。古墳ではなかった可能性がある古墳は備考欄の隣の欄に疑問符で記す[注 10]。
周辺岩戸支群の東南東には喜多見古墳群が、同じく岩戸支群の東の武蔵野段丘には砧中学校古墳群がそれぞれ位置する[4]。どちらの古墳群も狛江古墳群における古墳の出現よりも早く出現している[5]。 慶元寺7号古墳は狛江市内の慶元寺の近くにあるが、喜多見古墳群に属すため[45]、唯一の狛江市内にありながら狛江古墳群を構成しない古墳となっている。 文化財東京都指定文化財
狛江市指定文化財
活動歩こう!狛江の古墳狛江市は古墳を巡るウォークラリーを2021年3月24日より実施している。土屋塚古墳、亀塚古墳、猪方小川塚古墳、兜塚古墳、経塚古墳の5箇所のいずれか、もしくは複数箇所を訪れ、古墳の写真を撮ったのち、狛江市役所社会教育課窓口、もしくはむいから民家園でその写真を提示することで提示した古墳に対応する「古墳カード」を手に入れることができる[20][22][46]。 狛江古墳群グッズ私企業である「ひたすら古墳を愛でる会社」は狛江古墳群に関連するグッズを製作し販売していた[47]。具体的に言えば、土器の形を模した革製のバッグや埴輪のぬいぐるみである。 ラジオ放送とテレビ放送上述の「ひたすら古墳を愛でる会社」に関連する「古墳にコーフン協会」を名乗る団体の代表者の「まりこふん」は、狛江ラジオ放送の古墳ラジオ番組である「古墳にコーフンラジオ」のパーソナリティを務めている[48][49]。また、テレビ東京系列の『出没!アド街ック天国』の「まりこふん」が出演した回である2021年7月10日放送回「狛江」では、2位に狛江古墳群が挙げられた。 備考古墳の数前述の通り、狛江古墳群に属す古墳の数はその資料によってまちまちである。約70基ほど存在したとするのがほとんどであるが、調査前に破壊された古墳も多数あり真相を知るのは難しい。以下に各資料が推定した古墳の数について列挙する。
歴史博物館開設について狛江古墳群が所在する狛江市では、隣接自治体である世田谷区や調布市、川崎市がそれぞれ世田谷区立郷土資料館、調布市郷土博物館、川崎市市民ミュージアムを有するにもかかわらず、歴史博物館や郷土博物館、及びこれに準ずる施設がない。近年市は古墳公園を相次いで開設するなどしているが、出土品などは施設内に保管されていて依然見ることができないという問題がある。こういった問題を解決するべく、狛江市にも歴史博物館のような機能を持った施設を開設するべきだとの声もある[50]。 ギャラリー
アクセス各古墳公園とも車での来園を禁じている[14][36]ので注意が必要である。古墳は狛江市内の各地に点在するので、小田急小田原線の狛江駅もしくは和泉多摩川駅を利用し、各古墳まで歩いて向かうのが無難だろう。猪方小川塚公園、亀塚古墳公園は公園内に自転車の駐輪スペースが設置されており、自転車での来園も可能である。周辺には自転車シェアリングもあるので自転車を借りることもできる。 狛江市は公式ウェブサイト上に、古墳をめぐることのできるルートを多く掲載している[51]。 脚注注釈
出典
参考文献
以下の文献は狛江市立図書館に所蔵されている。
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