狗子仏性狗子仏性(くしぶっしょう)は、禅の代表的な公案のひとつ。『無門関』第1則[1]、『従容録』第18則では「趙州狗子」。「趙州無字」[2]とも言う。その他『道樹録』『永平頌古』『拈評三百則』にも、この公案が見られる[3]。 概要大意:あるとき弟子の一人の僧が趙州に、「犬にも仏性があるか、それともないか」と尋ねた。趙州は「無」と答えた[4]。 これを巡る公案である。
本則の内容仏性は、『 ある時、僧が趙州に「狗子(犬のこと。「子」は接尾語で「子犬」ではない[12])に還って仏性有るやまた無しや」と問うと、趙州はにべもなく「無」と答えた[13]。その僧は犬にも仏性があると返ってくると思ったのだろう[9]。別の考え方では、一切衆生悉有仏性を担ぎ出して問を持ちかけ、趙州が仏性が無いと答えれば、仏教の教義にもとり、有ると言えばこの醜さはどうだと追求する二股をかけてきた[13]。同じ質問にも、ひたすら自分の疑いを晴らしたさにする質問と、自分については大して問題にせず相手の力を試みるためにする’’’ これが根底にありながら、趙州は「犬の仏性は無」といった[14][9]。なぜ趙州はそう答えたかがこの公案を解く鍵であり[14]、この基本理念から考えなおせ[3]、根本に帰ってみなければならないということである[15]。 趙州のいう無は、一般に使う有という概念に対する無でも、虚無(ニヒリズム)の無でもない[14][13][15]。有無というような相対的な考え方は禅では徹底的に戒める[14]。「無」は対立的概念の一切ない無、絶対無[14][13]、空のことである [14] 。 この公案は、趙州に質問した僧のような「すべてに仏性がある」というような執着や囚われを解き放って分別妄想を切って捨てるためのものであり[14]、相対的なものの見方を徹底的に排除するのが目的である[14]。この公案の眼目は、この無の絶対性を目指して参じていくところにある[14]。この公案に取り組んで苦しんだあげくの結論が、本当の自分にとっての仏性なのだろう[3]。有無も主観客観もなく絶対的な無に徹した時、無我無心の境地に達して心の自由と平安が得られる[14]。なお、無に帰って観ることを、天台宗では摩訶止観という[15] 無門慧開は、「纔渉有無 喪身失命(わずかに有無に渉れば 喪身失命す)」の頌曰で結んでいる[16]。 提唱、見解
無門関以外での記述趙州録本公案の原典である趙州録では、趙州和尚は、「有る」に対して「無い」と答えているに過ぎない[22]。 僧 : 犬にも仏性があるか 趙州 : ないな 僧 : 上は諸仏から下は蟻に至るまで仏性があるのに、どうして犬にはないのか 趙州 : そいつに業識性があるからだ[22] また、趙州録には下記のような「狗子仏性無話」の記述もある[8]。 ①では、狗子には業識性があるため、一切衆生悉有仏性という涅槃経以来の教義に反して、趙州は「無い」と答える[23]。 一方、②では、同じ問いに対して、すべての門前の道は長安に通じていると説く(仏教学者の秋月龍珉は、「何者も仏性を持たぬものはない」と注している)[24]。 しかし、業識性の有無を無視した場合には、①は迷いの面に焦点をあて、②は悟りの本来性に焦点を当てたものであるため、仏性の有無については同じ思考に基づいていると言える[24]。 このように、趙州録の「狗子仏性無話」は、業識性を含めてこそ意味をもち、「無」だけを取り上げて工夫する公案ではない。 従容録従容録では、趙州和尚は、初め狗子に仏性が「あり」と答えている[3]。問いを発した僧が「それではなぜ畜生の体なのか」と言うと、趙州は「仏性があると知っているのに悪業をなしたからだ」と答える[3]。次に、別の僧が問うと、趙州は今度は「なし」と言った[3]。こちらの理由は「無明の迷いのためだ」のことであった[3]。 これは正反対の答えだったが、趙州の気まぐれではなく、問いを発した僧のそれぞれの先入観を突き崩したにすぎない[3]。 興善惟寛の狗子仏性無話現存する資料によって判断すると、狗子仏性無話を最初に取り上げたのは、 馬祖道一の法を嗣ぐ[25]唐代の禅僧興善惟寛(755年 - 817年)であると、廣田宗玄は述べている[24]。 ここでは、興善惟寛は、狗子には仏性が有ると答える一方で、自らには仏性はないと答えている [24]。 宏智語録宋代の曹洞宗の禅僧宏智正覚(わんししょうがく:1091年 - 1157年)の「宏智語録」には、狗子に仏性が「有り」とされる形式が継承される[24]。
ここで、狗子に仏性が有りと答え、「 故らに犯すが為なり」と言うのは、自ら輪廻に下っていくという「異類中行」(趙州従諗も参照)の意味であると解されている。 五燈会元中国宋代の禅書『五燈会元』(ごとうえげん)の第4には、この続きが書かれている。 僧はまた問うた。 「上は諸仏より下は螻蟻に至るまで皆仏性あり、狗子甚麼として却て無きや」 (大意:あらゆるものに仏性はあるとされるのに、なぜ犬にはないのでしょうか?) 趙州和尚はまた答えた。 「尹(かれ)に業識性の在るが為なり」 (大意:欲しい、惜しい、憎いなどの煩悩があるからだ。) 僧は更に問うた。 「既に是れ仏性、什麼としてか這箇の皮袋裏に撞入するや」 (大意:仏性があるならなぜ犬は畜生の姿のままなのでしょうか?) 趙州和尚は更に答えた。 「他の知って故らに犯すが為なり」 (大意:自他ともに仏性があることを知りながら、悪行を為すが故である。) 狗子仏性の公案を題材にした作品
関連項目出典
参考文献
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