物部広泉
物部 広泉(もののべ の ひろいずみ)は、平安時代初期から前期にかけての貴族・医官。姓は首のち朝臣。官位は正五位下・内薬正。 経歴伊予国風早郡(現在の愛媛県北条市)の出身で、のち平安京の左京に住んだ。若い頃から医術を学び多くの医書に通じた[1]。 天長4年(827年)医博士兼典薬允に任ぜられ、のち淳和天皇の侍医に遷任し伊予掾・讃岐掾を兼ねた。仁明朝の承和6年(839年)外従五位下に叙せられる。承和12年(845年)内薬正を兼任すると、卒去までの約15年に亘って内薬正兼侍医を務めた。承和14年(847年)内位の従五位下に昇叙される。 文徳朝では、斉衡元年(854年)に従五位上に叙せられると共に、同年首姓から朝臣姓へ改姓している。清和朝の貞観元年(859年)正五位下に昇叙されるが、翌貞観2年(860年)10月3日卒去。享年76。最終官位は正五位下行内薬正兼侍医三河権守。 人物薬石(薬や治療法)の道にかけては当時比肩する者がなかった。また、老いて髭や眉は真っ白になっても、皮膚に光沢があり身体はなお壮健であったという[1]。養生書『摂養要決』全20巻を著し、世の中に広まったとされるが[1]、現在は散逸して伝わらない。『金蘭方』の編纂者の一人ともされるが、これは偽選書に基づく誤り。 官歴『六国史』による。
脚注参考文献 |