牧野貞直
牧野 貞直(まきの さだなお)は、常陸笠間藩の第8代藩主。江戸幕府の寺社奉行・大坂城代である。成貞系牧野家11代。 生涯文政13年(1830年)11月27日、第3代藩主・牧野貞喜の四男・布施重正の次男として生まれる。嘉永3年(1850年)に本家の第7代藩主・牧野貞久(貞喜の曾孫、貞直の従甥にあたる)が死去したため、嘉永4年(1851年)4月にその養子となって家督を継ぐ。5月16日に江戸城西の丸大手御門番に任じられ、12月16日に備後守に任官する。嘉永5年(1852年)11月28日の江戸城西の丸火災の消火で功績を挙げた。 嘉永7年(1854年)4月26日、江戸城桜田門番に任じられる。安政5年(1858年)6月25日に越中守に遷任し、万延元年(1860年)6月26日に奏者番、12月28日には寺社奉行に任じられる。しかし文久2年(1862年)の文久の改革で奏者番は廃止された。元治元年(1864年)4月28日、名を貞明から貞利と改め、同年に起こった天狗党の乱では幕府軍として鎮圧に努めた。11月1日に大坂城代に任じられる。 慶応4年(1868年)1月の戊辰戦争では、大坂城代だったこともあって幕府方に与したが、その緒戦である鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れると、徳川慶喜が海路から逃亡したのに対し、家臣3人だけを連れて陸路から江戸へと逃げのびた。1月20日に大坂城代を辞任した。また、藩内でも佐幕派と尊王派に分裂して抗争した結果、新政府に属して4月8日に宇都宮藩に対して出兵している。 明治元年(1868年)12月5日、家督を長男の貞寧に譲って隠居する。明治2年(1869年)8月12日に貞直と改名した。明治20年(1887年)1月13日に死去した。享年58。 系譜父母 正室 側室
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