牛田智大
牛田 智大(うしだ ともはる、Tomoharu Ushida、1999年〈平成11年〉10月16日[1][2] - )は、日本のピアニスト。 略歴福島県いわき市生まれ[3][4][5][6]、愛知県名古屋市育ち[7]。生後間もなく父親の転勤により、家族と共に上海に転居する[8]。1歳の頃から電子ピアノをおもちゃ代わりのように遊んでいたが、3歳の時に郎朗やユンディ・リの演奏を収録したDVDを鑑賞して夢中になり、本格的にピアノを始める。幼稚園の時に父親からピアニストになる目標に対して一度は反対されたが、「自分の人生なので、自分で決めさせて欲しい」と父親を説得した。 小学校入学時に帰国[8]して愛知県名古屋市に転居し[1]、名古屋市立笹島小学校を卒業した[9]。 モスクワ音楽院ジュニアカレッジで、ユーリ・スレサレフ(英語: Yuri Slesarev)、アレクサンドル・ヴェルシーニン[10]、アルチョム・アガジャーノフ等に師事[11]。 2012年(平成24年)3月、日本人クラシックピアニストとしては史上最年少の12歳でユニバーサルクラシックスより、デビューアルバム『愛の夢』を発表し人気を得る。同年7月、東京オペラシティにおいてデビューリサイタルを行う。以後、日本各地で精力的にコンサートを実施。当初リサイタルではプーランクの曲と中華人民共和国の作曲家である汪立三(ドイツ語: Wang Li-san)の曲を気に入り必ず演奏していた。2013年(平成25年)9月からはショパンとリストの作品を中心にリサイタルを行う。 2014年(平成26年)、シュテファン・ヴラダー指揮によるウィーン室内管弦楽団との公演で自身初となる海外音楽家との共演を果たす[12]。2015年(平成27年)にはミハイル・プレトニョフの指揮によるロシア・ナショナル管弦楽団と、2018年(平成30年)にはヤツェク・カスプシクの指揮によるワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団との日本公演を行う。2019年(令和元年)にブリュッセルピアノフェスティバルに招待され、演奏会を行う[13]。 作曲も行い、2012年(平成24年)秋に国立新美術館で開催された「リヒテンシュタイン展」のテーマ曲を担当[14]。 『音楽の友』2022年12月号では、読者アンケート「あなたのもっともすきなショパン演奏家」で第1位に選ばれた[15]。 人物好きな作曲家は、シューベルト、ショパン、リスト、チャイコフスキー、ラフマニノフ、プーランク。好きな曲はショパン作曲・マズルカ へ短調 遺作 作品68-4[16]。 プロのピアニストとして活動しつつ様々なピアニストの下で研鑽も積んでおり、2024年(令和6年)にもラ・フォル・ジュルネ TOKYOでのレナ・シェレシェフスカヤ(フランス語: Rena Shereshevskaya)のマスタークラス[注釈 1]を受講したり[17]、霧島国際音楽祭でのエリソ・ヴィルサラーゼのマスタークラスを受講している[18][19]。 エピソード幼い頃から活字中毒で、電車通学中に電車通勤中の父親が読んでいるのを真横で一緒に読んだことがきっかけで小学3年生の頃から日本経済新聞を愛読しており、中学生の頃には重松清の小説が好きで日本経済新聞と重松清の『熱球』をいつもカバンに入れて通学中に読んでいた[20]。学校の授業では、歌やリコーダーはあまり上手くなかった[20]。 上海に住んでいた時に、NHKの番組を通して日本語を覚えたため、小学生のときから丁寧な言葉遣いで話していた[20]。テレビをほとんど見ないため、有名芸能人やスポーツ選手等の名前を知らないことが多々あった[20]。 羽生結弦の大ファンであり、自分にはまだ早いため弾けないと思っていたショパン作曲・バラード第1番も、羽生が大会で使用し「今までになかった表現、演技を磨きたい」と語った事からプログラムに入れた程であり[21]、フランツ・リスト作曲・死の舞踏を知ったのも羽生がこの曲で滑る映像を見たのが最初である[22]。主にソチオリンピックでの羽生のプログラム使用曲をアルバムにも収録した。 Facebookでの発信は、進学などに伴って当面は学業を優先したい等の理由から、2018年(平成30年)4月2日0時からしばらく非公開となったが、後に再開。2019年(平成31年)4月よりTwitterも開始し、翌年3月末からはしばらく非公開だったが、後に再開。 受賞歴
ディスコグラフィ
出演歴テレビ番組
関連書籍
脚注注釈出典
外部リンク
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