無錫市
無錫市(むしゃく/ウーシー-し、中国語: 无锡市、拼音: )は中華人民共和国江蘇省の南部に位置する地級市。 改革開放以来、急激に工業が発展し、とりわけ日本企業の進出が多い。長江デルタ中心都市の一、東の上海からは128km、西の江蘇省省都・南京からは183kmの距離。東隣は蘇州市、西隣は常州市。 無錫の市域の北部境界は長江南岸にあたり、無錫市管轄下の港湾都市・江陰市が泰州市を対岸に臨む。南部の境界は太湖北岸だが、市域はさらに太湖をはさんで飛び地となっている宜興市も管轄している。宜興市は北と西を常州市に囲まれ、南は浙江省に接している。 地理無錫の位置は北緯31度7分から32度2分、東経119度33分から120度38分の間。無錫市域の主要な範囲は沖積平野であり、ごくわずかの低山と丘陵がある。最高地点は黄塔頂(611.5m)。これらの山は石灰岩からできており、「太湖石」とよばれる穴の多い複雑な形の奇石を産出する。この石は中国庭園で鑑賞や瞑想などのために置かれ珍重される。無錫市域の南部は太湖が広がり、市の水面面積は769平方km、面積の16.5%を占める。無錫は小さな河川が無数に流れる、典型的な江南の水郷である。太湖に産する魚などの水産物が豊富で、古来「魚米の郷」と呼ばれていた。 太湖に接した無錫市街は、典型的な中国の古い城壁都市であり、中心を隋代以来の「大運河」が貫き、京杭運河となった今でも多くの船が行き来する。 無錫はかなり暑い夏から非常に寒い冬まで気温差が大きく、年平均気温は18℃である。東シナ海に近いためモンスーンや台風の影響を受け、年平均降水量は1,000mmに達する。 歴史
無錫は有史以来非常に長い歴史を持つ。有史以前は6〜7000年前からの居住や農耕の跡があり、長江文明に属する良渚文化の墳墓など遺跡群がある。ここが呉の発祥の地の一つとなった。呉は製鉄など金属の精錬・加工と農具・武器への利用で中原の国々を圧倒したが、無錫も元来はスズ(錫)を多く産出する「有錫」という名の鉱工業都市だったという。余りにも多く掘り過ぎて前漢までに掘り尽くしてしまい、以来「無錫」になったといわれる。しかし近年の言語学者らの研究により、無錫の市名の無という字の由来は越語の発語詞によったものであり、従来の錫の産地から「有錫」「無錫」になったという説を否定する研究もある(江南は古代中国では越国の領地であって、言語も当然越語が使われていた。今日江南地域で通用する呉語の源もこの越語である)。 紀元前202年、前漢はこの地に無錫県を置いた。隋時代に建設された大運河が無錫を通り、以来、江南の農産物や織物を集散し華北や中国各地へ送る重要な経済都市・商業都市であり続けた。また、明末には顧憲成によって東林書院が建てられ東林派の拠点となった。 清代後期には、無錫は周囲の農産物の集積を背景に、その米市場の相場の影響力は江蘇省の範囲を超えるまでになった。中国の四大米市の1つに数えられていた。また紡績業や繊維産業が発達し、無錫は「布碼頭(布の港)」と呼ばれるほどだった。辛亥革命までの間に食品や繊維などの民族資本が形成され始める。 こうした経済の発展は文化の発展も伴った。多くの文人らが無錫から生まれ、無錫には寄暢園など非常に優れた庭園などが建設され今も残っている。 1912年、中華民国は無錫県を置き、大小の資本の本拠地となった無錫は「小上海」といわれるほどの商業の繁栄を見た。1937年、日中戦争により、日本軍は無錫に入城し、戦場となった市街は大きく破壊された(中国側の調査では入城の際に1万4千人が犠牲になったとされる)。1949年4月23日、国共内戦の末、中国人民解放軍が無錫を占領した。1953年無錫は江蘇省の直轄市となった。だが、大躍進政策、人民公社化と文化大革命は、無錫とその周辺に荒廃と経済の多大な破壊をもたらした。 改革開放以来、無錫の経済は再起し、目覚しく発展を遂げることとなった。1981年には全国15ヶ所の経済中心都市の一つとなり、1984年には全国10ヶ所の重点観光都市の一つともなった。1985年までに無錫は開放都市となり、工業団地などが整備され、海外資本が大規模な投資を行った。以来、無錫は常に都市実力ランキングや投資環境ランキングで中国の上位に入り、2022年の市民一人当たりの国内総生産は198400元(当時のレートで27982USドル)に達している。 行政区画5市轄区・2県級市を管轄する。
年表蘇南行署区無錫市江蘇省無錫市
経済2024年、無錫市のGDPは16263.29億元に達し、不変価格で前年比5.8%増となり、全国平均(5.0%)を上回ります。そのうち、第一次産業の付加価値は140.45億元で、前年比3.5%増、第二次産業の付加価値は7716.02億元で、前年比6.2%増、第三次産業の付加価値は8406.82億元で、前年比5.4%増、財政収入は1210.1億元で省内第3位、一人当たりGDPは216,900元で、北京市、上海市に次いで全国第3位となります。[3] 無錫は清代末期に中国で最も早く民族資本が形成された都市のうちの一つであり、現在では外資の誘致でも中国有数の実績を持つ。無錫市は新区に市内最初の経済開発区「新区開発区」を設置したが、現在までにソニー、パナソニックグループ、シャープ、東芝、日立マクセル、村田製作所、コニカミノルタ、ニコン、アルプス電気、住友電工など日系企業や、アメリカのハードディスクドライブ最大手シーゲート社や台湾の家電メーカー東元電機などの大型工場、物流倉庫などが多数稼動している。また隣接する濱湖区にも経済技術開発区を建設し多数の投資を誘致している。 特に無錫と日本との関係は密接で、2003年段階で1,000社を超える企業がすでに進出し、投資総額でも30億ドルに迫る勢いである。これは江蘇省に対する日本からの投資の半分を占め、省都南京をはるかに越え、蘇州を上回り上海に迫るものである。湖などに接する恵まれた自然環境、比較的よい治安、上海の港湾や空港からの近さ、『無錫旅情』(後述)などで日本でも名が知られ、対日感情もさほど悪くないことが要因として挙げられよう。 その他台湾、香港、欧米諸国など多くの国からの投資もあり、2002年末までに無錫市が認可した外国からの投資は累計7,000社弱、契約ベースでの投資額は220億ドルに登り、世界各国の有名企業による1億ドルを超える大型案件も多数含まれる。 市の調査(2002年)によれば、現在でも産業の大きな割合(24%)を占めるのが繊維産業で、25%がその他工業であるという。その他伝統産業では、宜興市は大理石、石灰岩、陶土の採掘で知られ、茶器など陶器生産が盛んである。恵山区などでは、土産物の泥人形(恵山泥人)の阿福・阿喜人形などが有名である。農業は、大型工業団地建設など工業化・人口増加に伴い年々耕地が減少しているが、その分、付加価値の高い商品作物にシフトして生産額を高めようとしている。 商業無錫は、中国東部の重要な商業の中心地として、そのユニークな地理的位置と歴史的背景で常に有名である。 無錫の商業発展には長く繁栄した歴史があり、地元の経済社会発展に重要な役割を果たしてきた。 無錫の最も初期の商業発展は、春秋戦国時代に遡る。この頃からすでに商業活動が行われており、歴史の進化に伴い、徐々に江南地域の交通の要所および商業の中心地となっていった。無錫は太湖湖畔に位置し、交通が便利で、古くから絹、茶、米などの集散地として栄えてきた。現在は、サービス産業とハイテク産業を中心とする多角的な経済となっている。 長江デルタの中心に位置し、交通の便が良く商品の流通に有利であるという地理的優位性と、豊富な天然資源と文化遺産を有し、商業発展のための独特の条件があること、無錫市政府がビジネス環境の最適化に力を入れており、多くの国内外の投資家や起業家を誘致していることが、商業中心都市としての発展に好影響を与えている。 現在、無錫の商業エリアは梁西区の中山路沿いに集中しており、この道路沿いには茂業百貨店、紅豆万華城、大東方百貨店、蘇寧プラザ、Center 66、ヤオハン、パークソンなどの中国内外の商業小売企業が集まっている。また、崇安寺・南禅寺・南長街は伝統的な商業地である。 1996年に江蘇省初の中外合弁小売企業であるヤオハンが設立され、1997年に中国で2番目の大型外資系スーパーマーケットであるメトロが設立されて以来、外資系商業小売業の集積が進んでいる。無錫は長江デルタ地域では上海に次ぐ第2位の商業都市である。現在では、Center 66、大東方百貨店、無錫ヤオハン、IKEA、ヤオハンセンター、アウトレット、アップルストア、万象城、海岸城、茂業百貨店などがあり、江蘇省や長江デルタ地域有数の商業中心都市の一つとなっている。 交通無錫は北京〜南京〜上海の幹線上に位置し、重要な鉄道・道路・水路が通っている。
教育大学
高等学校(部分)
国際学校(部分)
医療無錫には医学の長い歴史がある。明の時代以来、楊忠仁、石忠模、鄧興波、柯懐図、薛福辰などの著名な医師が帝国病院に勤務したり、皇室の診断と治療を命じられたりした。また、古代中国では珍しい女性医師の談允賢とXu Lushiも無錫の出身である。 近代的な医療機関は、1908年にアメリカ聖公会の宣教師で医学博士のリー・ケレが、現在は無錫の第2人民病院となっているピュレン病院を設立したことが始まりである。現在は、1つの医科大学(江南大学付属医科大学)と10の市立病院を含め210ヶ所の病院があり、その内14の病院が最高レベルである。
無錫市人民病院は、2013年の中国「レベル競争力トップ100リスト」」で12位にランクインした。 体育無錫運動公園以前は無錫人民競技場として知られ、1954 年に古代の運河のそばに人民競技場が完成すると、多くの無錫市民が訪れました。 無錫の新しいスポーツセンターの完成後、市人民体育館はスポーツトレーニングの役割を担わなくなった。 1999 年、無錫市は市人民体育館の一部を改修し、大衆向けスポーツ フィットネス施設エリアと高齢者向けアクティビティ ゲートボール コートを開設しました。このスタジアムは無錫運動公園としても知られています。すべての会場は一般公開されており、約 100 万人が入場できます毎年多くの人が訪れ、フィットネスやレジャーを目的に運動公園を訪れる人もたくさんいます。 無錫ニュー スポーツ センター無錫市浜湖区太湖西大道1500号に位置し、太湖大道の北、青旗路の西、建社路の南に位置し、敷地面積は約44万平方メートルです。 第1期事業は既に実用化されており、2002年末には第2期事業が開始される予定である。主に6,600人収容の体育館(会議・展示機能も備える)、屋内テニスホールなどを含む。 、水泳・飛び込み場、射撃・アーチェリー場、選手宿舎(スポーツホテル)、スポーツスクール、その他の会場。 その時までに、無錫市には一流の水準、一流の設備、充実した機能を備えた近代的なスポーツセンターが完成し、無錫の近代化建設の成果を十分に示す画期的なプロジェクトとなるだろう。 無錫オリンピック スポーツ センター無錫ニュースポーツセンター会場の老朽化などの要因により、無錫オリンピックスポーツセンタープロジェクトは2023年に正式に建設が開始される予定です。施設の総敷地面積は約56.7ヘクタール、総建設面積は約467,000平方メートルです。 、総投資額は約69億元です。 60,000席のスタジアム、18,000席の体育館、2,000席のプール、ナショナルフィットネスセンターが建設される予定で、クラスAスタジアムの基準に従って建設され、完成すれば大規模なスタジアムの開催が可能となる。全国的な総合スポーツイベント。 「1会場、2会場」に加え、ビジネス、ホテル等を含む7万平方メートルの文化、商業、スポーツ、観光の複合施設も建設します。企画・運営の強化により、複数の「初の競技会」や「プレミア」などの活動を通じて、無錫オリンピックスポーツセンターを多様なプロジェクト、豊富な業態、充実した機能を備えた現代的な大規模スポーツ複合施設に構築するよう努めています。 古跡・観光地・名物
土産物・名産品も多い。 また、演歌歌手・尾形大作の歌唱する『無錫旅情』(1986年、作詞・作曲 中山大三郎)のヒットにより、無錫は日本人の間で脚光を浴び、1980年代後半から無錫への日本人観光客の数が急増した[4]。中国でもこの曲はカバーされてヒットした。カバー盤を含めた『無錫旅情』の累計売上は300万枚を超える[5]。 友好都市アジア
ヨーロッパ
アメリカ
オセアニア
アフリカ
ほか、濱湖区が日本の松阪市と(2008年4月14日から)、無錫新区が豊川市と(2009年4月15日から)、県級市の江陰市がブラジルのベロオリゾンチと(1996年11月18日から)、宜興市がスロベニアのノヴォ・メストと、それぞれ友好都市となっている。 脚注
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