瀧川家
瀧川家(たきがわけ)は、日本の医家。鳥取県境港市を拠点としている。 系譜遠祖・滝川一益瀧川家は戦国時代の武将滝川一益を遠祖とする[1]。一益の四男・知ト斎は鳥取池田家へ御預けとなり、この知ト斎の三男・十左衛門一路が家督を継ぎ、鳥取藩主・池田光仲に召抱えられて鳥取藩士となった[2]。 初代・一賀知ト斎の四男・権左衛門は浪人となったが、医術を学んで帰り、寛永15年(1638年)4月に兄・一路の家より分家独立し、滝川ト玄斎一賀と称して鳥取で医業をなりわいとした[2]。この一賀が鳥取の医家瀧川家の初代となる[2]。 2代・一貞2代・一貞は一賀の長男で医号を三伯と称した[2]。鳥取で父の医業を継いだが、正徳6年(1716年)3月に没している[2]。 3代・一虎三伯に子供はなく弟の一虎が3代目を継いだ[2]。一虎は初め鳥取で官庵と号して医業を営んでいたが、後に伯耆国河村郡橋津村(現在の鳥取県東伯郡湯梨浜町橋津)に住居を移し、医を業とした[2]。元文2年(1737年)10月に71歳で没し、その地の西蓮寺に葬られた[2]。 4代・一秀4代・一秀は一虎の嫡子で、医号に父の官庵の名跡を継いだ[2]。安永4年(1775年)3月、64歳で没した[2]。 5代・一信5代・一信は一秀の嫡子で、初め文泉、のち官庵と号して同じく橋津村で医を業としていた[2]。文化5年(1808年)12月、死去[2]。 6代・孝章一信は二女・松野に大崎村(現在の鳥取県米子市大崎)三角氏の二男・孝章を迎えて婿養子とした[2]。孝章は6代目を継ぎ、官庵と号して医業に精励した[3]。文化8年(1811年)8月、死去[3]。 7代・一方さらに松野に養子を迎えた[3]。これが7代・一方である[3]。一方は鳥取藩士・佐藤信実の六男[3]。 8代・一致一方にも医を継ぐ男子なく、妻・松野の姉、すなわち5代・一信の長女の恵美が鳥取藩家老家の和田家の家臣・井上猪一の妻となっており、その子の三男・三之丞を一方の養子として医術を学ばせた[3]。三之丞は医師となって一致と名のり、文泉、のち官庵と号して橋津の医家を継いだ[3]。妻は久米郡不入岡村(現在の鳥取県倉吉市不入岡)の神官石川豊前の二女・理代である[3]。 9代・一貫10代・一敏10代・一敏は、鳥取滝川家の本家筋である鳥取藩士・滝川半内一政の三男である[4]。明治17年(1884年)に養子縁組が成立し、鳥取の医家で医術を学び、次いで鳥取医学校に入った[4]。大阪に出て緒方病院などで医術研修ののち、医師開業試験に合格し、橋津村で開業した[4]。 11代・一穂11代・一穂は下浅津村(現・湯梨浜町下浅津)に中庄屋・尾崎喜惣治の子として生まれ、一敏の養子に入った[5]。大正10年(1921年)に愛知県立医学専門学校(現・名古屋大学医学部)を卒業、さらに母校と京都大学で研究し学位を得た[5]。昭和12年(1937年)に境港に出て、この地方では初めての病院を開業した[5]。新しい様式の病院とあって盛業だったという[5]。一穂は若い頃から俳句に親しみ、俳号を一甫と称し、松風吟社をつくり俳誌「松風」を発刊した[5]。 12代・一尚12代・一尚は米子医学専門学校を卒業した[5]。父の没後、その跡を受けて境港市日ノ出町で開業した。 系図凡例:太字は当主、実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。
その他
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