溝口安勝
溝口 安勝(みぞぐち やすかつ)は、江戸時代前期の旗本。越後国沢海藩初代藩主・溝口善勝の三男。分家独立して旗本となる。通称は九十郎・孫左衛門。諱は初め直勝(なおかつ)、のち安勝に改める。 略歴寛永11年(1634年)、初めて3代将軍・徳川家光に拝謁する。同年、父の遺領越後蒲原郡のうちにて1000石を分与される。この知行地は越後蒲原郡山口村(現新潟県阿賀野市山口町)を中心としていたことから、安勝の系統の家を山口溝口家とも称する。 慶安3年(1650年)書院番士となり、寛文4年(1664年)には上野・下野・常陸等の巡見使を務める。寛文9年(1669年)には目付代として島原城に赴き、のち松平忠房への同城引き渡しを務める。寛文12年(1672年)に使番となり、以後もしばしば各地への監察・使者の役目を務めた。天和2年(1682年)には上野国山田郡のうちに500石の地を加増される。貞享2年(1685年)、勤めを辞して寄合に列す。 元禄元年(1688年)に致仕して家督を嫡子の友勝に譲る。この時、友勝には越後の1000石を与え、同時に次男常勝には上野の500石を分与して分家独立させた。致仕後の号は安勝(このことから安勝の名は致仕後の晩年のみ使われた可能性もある)。 元禄7年(1694年)3月17日に76歳で歿。法名は安勝。江戸貝塚の青松寺に葬られ、以後同寺は当家代々の葬地となった。 系譜 |