清水正雄
清水 正雄(しみず まさお、1887年(明治20年)12月20日[1] - 1947年(昭和22年)3月30日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 経歴1887年(明治20年)に和歌山県で生まれた[1]。陸軍士官学校第21期卒業[1]。1937年(昭和12年)3月31日に歩兵第3連隊留守隊長に就任し[2]、8月2日に陸軍歩兵大佐に進級[2]。1939年(昭和14年)5月に歩兵第103連隊長(第11軍・第101師団)に転じ[2]、日中戦争に出動[1]、贛浙作戦に参加した[1]。1940年(昭和15年)2月に福知山連隊区司令官に転じた[2]。 1942年(昭和17年)8月1日に陸軍少将に進級し[2]、独立混成第14旅団を基に編成された第68師団隷下の歩兵第57旅団長に着任し[1]、九江付近で守備に就いた[1]。1944年(昭和19年)3月10日に第7師団兵務部長に転じ[3]、3月18日に留守第7師団兵務部長[4]、4月1日に第77師団兵務部長[1]、7月8日に留守第7師団兵務部長を歴任した[1]。1945年(昭和20年)3月31日に旭川連隊区司令官兼旭川地区司令官に就任した[5]。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]。 脚注
参考文献
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