旭川連隊区旭川連隊区(あさひかわれんたいく)は、大日本帝国陸軍の連隊区の一つ。北海道の一部地域の徴兵・召集等兵事事務を取り扱った。一時、樺太を管轄した。実務は旭川連隊区司令部が執行した。1945年(昭和20年)、同域に旭川地区司令部が設けられ、地域防衛体制を担任した。 沿革1898年(明治31年)4月1日、連隊区司令部条例改正(明治31年3月8日勅令第35号)により十勝連隊区が廃止され旭川連隊区が新設された。管轄区域が定められ、第7師管に属した[1]。1899年4月15日、司令部が石狩国上川郡永山村に移転した[2]。1902年10月23日、司令部が上川郡鷹栖村大字近文の新築庁舎に移転[3]。 1903年(明治36年)2月14日、改正された「陸軍管区表」(明治36年勅令第13号)が公布となり、再び旅管が採用され連隊区は第7師管第14旅管に属した。 日本陸軍の内地19個師団体制に対応するため陸軍管区表が改正(明治40年9月17日軍令陸第3号)され[4]、1907年(明治40年) 10月1日、全国的に管轄区域の大幅な変更が実施されたが、北海道についてはほとんど変更がなかった。 1925年(大正14年)4月6日、日本陸軍の第三次軍備整理に伴い陸軍管区表が改正(大正14年軍令陸第2号)され[5]、同年5月1日、旅管は廃され引き続き第7師管の所属となり、管轄区域に樺太が追加された。 1940年(昭和15年)8月1日、旭川連隊区は北部軍管区旭川師管に属することとなった。ただし、北部軍管区を管轄とする北部軍司令部が設置される同年12月2日まで、北部軍管区に関する事項は施行が延期された。また、管轄区域の樺太が豊原連隊区として独立した[6]。1942年10月8日、司令部が旭川市近文2397番地に移転した[7]。1945年には作戦と軍政の分離が進められ、軍管区・師管区に司令部が設けられたのに伴い、同年3月24日、連隊区の同域に地区司令部が設けられた[8]。地区司令部の司令官以下要員は連隊区司令部人員の兼任である。同年4月1日、旭川師管は旭川師管区と改称された[9]。 管轄区域の変遷1898年4月1日、旭川連隊区が新設され、管轄区域が次のとおり定められた[1]。札幌連隊区から石狩国上川郡、天塩国区域、北見国宗谷郡・枝幸郡・礼文郡・利尻郡を編入。また、根室連隊区(釧路連隊区)から北見国網走郡・斜里郡・常呂郡・紋別郡を編入して管轄区域を形成した。
1898年(明治31年)5月31日、札幌連隊区から石狩国空知郡富良野村を編入した[10]。1907年10月1日、札幌連隊区から胆振国勇払郡占冠村を編入した[11]。この時点での管轄区域は次のとおり。
1915年(大正4年)9月13日、旭川区が追加された[12]。1920年(大正9年)8月10日、釧路連隊区へ北見国網走郡・斜里郡・常呂郡・紋別郡を移管した[13]。1923年(大正12年)3月31日、旭川区を旭川市に変更した[14]。この時点での管轄区域は次のとおり。
1925年5月1日、北海道に関して管轄区域の表記を、次のとおり市と支庁によるものに変更し、樺太を加えた[15]。
1940年8月1日、管轄区域の樺太が豊原連隊区として独立し[6]、最終の管轄区域が次のとおりとなった。
連隊区司令官
脚注
参考文献 |