浜寺町
浜寺町(はまでらちょう)は、かつて大阪府に存在した町である。現在の大阪府堺市西区の一部に相当する。本項では町制施行前の浜寺村(はまでらむら)についても記す。
歴史14世紀中頃(正平年間)、高師浜の芦田川付近(現在の高石市、南海高師浜線伽羅橋駅付近)に三光国師が南朝の拠点のひとつとして大雄寺(金松山海光院大王寺が名跡を継ぐ)を建立[1]。同じく南朝の拠点のひとつであった吉野山の日雄寺(日雄山大日寺)が「山の寺」「山寺」と呼ばれたことに対し、高師浜の大雄寺が「浜の寺」「浜寺」と呼ばれたことが、浜寺の名称の由来である。 現在、高師浜は高石市の町名、浜寺は堺市西区の地区名として定着しているが、上述のとおり浜寺の「浜」は高師浜の「浜」であり、本来高師浜は現在の堺市西区から高石市にかけての海岸一帯を指した広域地名、浜寺はそのうち大雄寺跡や芦田川より北側を呼び分けた広域地名であった。 芦田川付近を境にした浜寺の呼び分けは、18世紀初頭(宝永年間)に芦田川以北の5ヶ村(船尾村、東下村、西下村、山内下村、今在家村)の住民が防潮のために植えた松林を1873年(明治6年)に日本最古の公立公園として整備・開園した浜寺公園の名称に表れている。その後、1889年(明治22年)の町村制施行時に今在家村(現在の羽衣)のみ高石村(現在の高石市)の大字となったことが、浜寺公園が両市にまたがっている理由である。また、羽衣に「浜寺郵便局」や「浜寺病院」など「浜寺」を冠した施設が現在も散見される。 浜寺公園西側の海浜は明治後期から昭和中期にかけて海水浴場として賑わいを見せていた。1957年(昭和32年)8月1日には、海水浴場に不時着しようとした極東航空機が結果的に墜落して乗員3人が死亡する事故も起きた[2]。その後、高度成長期に堺泉北臨海工業地帯の埋立造成によって自然海浜は失われた。また、浜寺公園の東側は大正期から昭和前期にかけて高級住宅街として整備された[3](「別荘 (#有名な別荘地#日本#大阪府)」参照)。 沿革
町長交通鉄道路線
現在は上記の他に阪堺線石津北駅が所在するが、当時は未開業。また、現在は阪堺線海道畑駅および阪堺電鉄全駅は廃止されている。 道路脚注
参考文献
関連項目 |
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