浅口郡
人口10,705人、面積12.23km²、人口密度875人/km²。(2024年11月1日、推計人口) 以下の1町を含む。
郡域1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記1町のほか、下記の区域にあたる。
歴史716年(霊亀2年)、『続日本紀』8月癸亥の条で初見。備中国には都宇、窪屋、浅口、小田、後月、下道、賀夜、英賀、哲多の9郡をおいたとされる。浅口郡には八郷(阿知郷・間人郷・船穂郷・占見郷・川村郷・小坂郷・林郷・大島(嶋)郷)。郡衙推定地は不詳である。 かつては、郡域の南部は海域であり、大島、柏島、乙島などの島嶼が存在し、大島と本州側は水道となっていた。薗水道東部の海域(現在の倉敷市玉島中心部あたり)は「甕の海」「甕の泊」「玉の浦」と呼ばれる入江であった。しかし中世以降の干拓による新田開発により、陸続きとなった。また連島(都羅郷)は、古代においては備前国児島郡に属していたが、後の時代に備中国浅口郡に編入となった。 郡名の由来としては、古代吉備国におかれた県のひとつである波区芸県(はくきのあがた)が変形したものであるという解釈が有力とされる[1]。他に俗説として、郡南部が海域だった時代に、甕の泊に入る際には、出入口の浅い部分が難所となったらしいとのことであり、そこから浅い口の名で呼ばれるようになったとの伝承がある。 近世以降の沿革
町村制以降の沿革
変遷表自治体の変遷
行政
脚注参考文献
関連項目 |