津軽承叙
津軽 承叙(つがる つぐみち[4]、津輕承敍)は、江戸時代末期の大名、明治時代の日本の政治家、華族。位階爵位は正三位・子爵。 陸奥国黒石藩第4代(最後)藩主、初代(最後)藩知事、貴族院子爵議員などを歴任した[5][1]。 生涯天保11年(1840年)8月29日、津軽氏一門・津軽氏(百助家)の津軽順朝の次男として、弘前にて誕生した。幼名は本次郎。初名は朝澄(ともずみ)。 陸奥黒石藩3代藩主・津軽承保の養子となる。嘉永4年(1851年)に承保が死去したためにその跡を継ぎ、弘前藩主・津軽順承(承保の養父で元は黒石藩2代藩主。承叙の実兄津軽承祜を養嗣子としていた。下段系図参照。)から偏諱を受け、承叙と改名した。 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、本家の弘前藩主津軽承昭とともに官軍に参加し、箱館征伐に戦功を挙げた[5]。この功績により、明治2年(1869年)に賞典金1,000両が下賜された[6]。明治2年(1869年)の版籍奉還で知藩事となるとともに華族に列し、明治4年(1871年)の廃藩置県に伴う免官まで藩知事を務めた[3]。 版籍奉還の際に定められた家禄は、現米で802石[7][注釈 1]。 明治9年(1876年)の金禄公債証書発行条例に基づき、家禄と引き換えに支給された金禄公債の額は、1万7254円26銭8厘(華族受給者中257位)[9]。 明治17年(1884年)7月8日、華族令施行により、華族が五爵制になると子爵に列する[10]。明治23年(1890年)7月10月には貴族院の開設と共に貴族院議員(子爵議員)となり、明治30年(1897年)7月10月まで在職した[2]。明治36年(1903年)12月7日、64歳で死去した。跡を長男の類橘(るいきつ)が継いだ[1]。 和歌の才に恵まれ、「日本英傑百首」の一人として名を連ねている。 栄典家族父母 妻
子女
略系図
脚注注釈出典
参考文献
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