津軽信寧
津軽 信寧(つがる のぶやす)は、江戸時代中期の大名。陸奥国弘前藩7代藩主。官位は従五位下・越中守。 生涯元文4年(1739年)2月27日、6代藩主の津軽信著の長男として誕生した。延享元年(1744年)8月2日、26歳で早世した信著の跡を6歳で相続した。また、一族の津軽著教[注釈 1]に3000俵を分け与えた。だが翌年に著教が死亡したため、3000俵は本藩へ戻された。宝暦3年(1753年)2月18日、9代将軍の徳川家重に御目見した。同年12月18日、従五位下土佐守に叙任された。 信寧の治世中、弘前藩は飢饉など天災が相次いで領地は荒廃し、借金は35万両にも及んだ。しかも藩重臣の3名が商人と結託して、藩内の米を買い占めて江戸へ売却して暴利を貪るなど、藩政に不正も起こっていた。明和3年(1766年)7月8日、地震のために弘前城が壊れたため、修復費用として幕府から4000両を借り入れた。天明元年(1781年)から起こった天明の大飢饉は藩にとどめを刺すこととなった。天明3年12月25日(1784年)、幕府から飢饉対策のために1万両を借り入れた。これら借財の返済のため、信寧は財政改革に乗り出そうとしたが、その矢先の天明4年(1784年)に急死し、跡を長男の信明が継いだ。 系譜偏諱を受けた人物脚注注釈
出典
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