津松阪港
津松阪港(つまつさかこう)は、三重県中勢地区にある重要港湾である[1]。 概要県庁所在地・津市にあった津港と、交通の結節点・松阪市にあった松阪港(大口港)を統合して誕生した港湾で、三重県内では四日市港に次ぐ規模を持つ。 津の港湾は、中国の歴史書には「日本三津」、日本の書物には「三津七湊」と記載された安濃津を起源とし市名の由来ともなったが、往時に比べれば日本国内における重要性は低下している。一方、松阪の港湾は蒲生氏郷が松坂城の城下町を整備した頃から物資の積み出し港として町の発展を支えてきた[2]。 1971年(昭和46年)4月1日に津港と松阪港が合併して成立した港湾で[3]、2港区14地区からなる。港湾面積は6,200haに達し[4]、三重県の主要河川である雲出川と櫛田川、津市の町中を流れる志登茂川・岩田川や、国道23号と42号が分岐する松阪市の三渡川の河口も港湾に含まれる。 沿岸にはジャパン マリンユナイテッド津事業所やセントラル硝子松阪工場をはじめとする工場が建ち並び、中京工業地帯の一翼を担っていることから工業港としての性格が強かったが、中部国際空港の開港に伴うアクセス整備により津なぎさまちが誕生するなど、近年は新しい位置づけもなされている。 港区港湾地区
歴史津松阪港は津港と松阪港を統合して成立した港湾であることから、ここでは統合前の津港と松阪港の歴史を述べた後に、統合後の歴史を記す。 津港の成立古代には安濃郡の港として安濃津(あののつ、あのつ)、転訛して洞津(あなのつ、どうしん)と呼ばれた港で、平清盛がこの港から熊野三山への参拝のために出港したと『平家物語』に記述されるなど、平氏にとって重要な港であった[5][6]。津市産品には平清盛の父で、伊勢平氏の勢力を拡大した平忠盛の生誕地との伝説があり、「平氏発祥の地」碑が立つ[6]。また白砂青松の阿漕浦の名は京都でも知られていたようで、平安時代の和歌や室町時代のお伽草子に登場する[6]。中世には三津七湊の1つとして日本を代表する港として見なされ、中国・明代の茅元儀が著した『武備志』の「日本考」にも と記され、筑前国那珂郡・博多津や薩摩国川辺郡・坊津と並ぶ日本三津として紹介された[5]。これは、安濃津が伊勢平野の中央に位置し、伊勢参宮街道の中間点かつ内陸国の伊賀・大和・近江へ至る街道の起点であったことによる[7]。中勢の米を伊勢神宮に献上する船の拠点や北勢の物資を輸送する寄港地として栄えた[5]。しかし、1498年(明応7年)8月25日に発生した明応地震に伴う津波が港を直撃し、急速に衰退した[5]。寂れ具合について、当地を通りかかった連歌師の宗長は4、5千の廃墟や堂塔の跡を残すのみの荒野となり、犬の姿や鳥の鳴き声すら稀であると手記に記録している[5]。その地震以後の歴史は約200年間の空白になっている。こうして港が破壊されてしまったために当時の正確な港の位置は分かっておらず、現在の贄崎(にえざき)灯台沖説と阿漕塚説がある[7]。 江戸時代に入ると津藩主の藤堂氏が自藩の物資輸送上の理由から、岩田川河口に港を築いた[5]。この結果、贄崎が港町として繁栄することとなった。ただし、河口に港を造成したため河川の土砂堆積作用に苦しめられ、幾度となく浚渫(しゅんせつ)を行わねばならず、1925年(大正14年)の北岸突堤の完成によってようやく軽減することとなった[5]。 鉄道開通前の明治初期頃まではお伊勢参りの客を乗せた定期船が寄港していたものの、航路廃止以後は貨物定期便のみが第二次世界大戦頃まで残った[5]。 松阪港の成立1588年(天正16年)、飯高郡の松ヶ島城から四五百森(よいほのもり)に城が移り松坂城下町が整備されると、城下の交通は阪内川(さかないがわ)、広域輸送は大口港が担うようになった[2]。また、城主の蒲生氏から請われて廻船問屋の伊勢商人・角屋七郎次郎忠栄も伊勢国度会郡・大湊から松坂に移ってきた。 角屋はかねてより、北条氏・織田氏・北畠氏らの御用達にも携わる豪商であり[8]、忠栄の父・角屋七郎次郎秀持は本能寺の変において「神君伊賀越え」で徳川家康の危急を救ったことから「汝の持ち船は子々孫々に至るまで日本国中、いずれの浦々へ出入りするもすべて諸役免許たるべし」として家康から朱印を授かった[9][10]。このことから角屋の朱印船は子々孫々までという約束で徳川家御用商人の特権を与えられ、松坂を拠点にした朱印船貿易が行われることになった。 また、角屋七郎次郎忠栄の次男、角屋七郎兵衛は朱印船貿易で富を成し、安南(現在のベトナム)・フェイフォ(現称:ホイアン)の日本人街で指導的立場になった[11]。 江戸時代には紀州藩松坂領内の米の集散地として機能し、米倉も建てられた[12]。また、参勤交代の際には三河国渥美郡・吉田と尾張国愛知郡・熱田を結ぶ船が寄港したという[12][13]。 明治時代には、鉄道の開通と共に一旦は衰退するものの、大正時代に松阪の西方にある飯南郡(現在は松阪市内)の木材を輸送するために、三重県が76万円をかけて港村に防波堤や護岸などを整備し、1930年(昭和5年)に完工した[12]。同じ年に内務省の指定港湾となった。 また、1913年(大正2年)には松阪軽便鉄道(三重交通)大口線が開業。港のある大口駅から松阪市街の平生町駅を介し、松阪駅や山間部の大石駅まで鉄道が結ばれた[14]。この鉄道は、戦後の1948年(昭和23年)まで運行された。 なお、松阪港に改称したのは港村が松阪町に編入合併された1924年(大正13年)のことである[15]。 第二次世界大戦の終結後、松阪市が沿岸を埋め立てて工業団地を造成し、セントラル硝子を始めとする企業が誘致された。 2港の統合統合前、1954年(昭和28年)の台風第13号が、1959年(昭和34年)には伊勢湾台風がそれぞれ三重県を直撃し、津港と松阪港はいずれも壊滅的な被害を受けた[16]。伊勢湾台風の翌年から1964年(昭和39年)にかけて災害復旧事業で護岸工事が実施され港が再生した[16]一方で、かつて和歌にも詠まれた阿漕浦の美観は損なわれた[7]。そして両港の更なる機能強化を図って1971年(昭和46年)4月1日、津港と松阪港は合併し津松阪港が成立した[3]。同年に水深7.5mの大型岸壁が松阪港区に完成し、1974年からフジフェリーにより東京港との間に長距離フェリー航路が就航した[17][18][12]。 平成時代に入り、伊勢湾台風後の改修から40年以上が経過したことから港湾施設の老朽化が見られる[16]。そこで1992年(平成4年)度から香良洲地区・三雲地区・松阪港区で液状化対策が施され、2002年(平成14年)度からは津港区贄崎地区で工事が始まった[16]。この事業は「ふるさと海岸整備事業」と名付けられ[19]、利用・環境・景観の3点に配慮した港湾整備を実施している[20]。 港湾統計
定期旅客航路
過去に就航した定期旅客航路
観光津松阪港における観光は、海水浴場での海水浴や潮干狩りを始め、マリーナ、ヨットハーバー、キャンプ場などマリンスポーツが主体となっている。特に津港区は伊勢の海県立自然公園の指定を受けている。
脚注
参考文献
外部リンク
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