河野本道河野 本道(こうの もとみち、1939年(昭和14年)8月17日[1] - 2015年(平成27年)3月2日[2])は、日本の文化人類学者、考古学者。専攻はアイヌに関する文化人類学、考古学的研究。 人物明治・大正期の考古学者で北海道研究の草分け的存在であった河野常吉を祖父に、アイヌ研究・昆虫分類学で業績を残した河野広道を父に持つ。 1964年、北海道大学文学部卒業、1970年、東京大学大学院文学研究科博士後期課程(社会学研究文化人類学専攻)を単位取得退学。東大時代は全闘連の一員として、東大安田講堂事件に参加していた[3]。 協会から委嘱されて「アイヌ史」編集委員(1983年 - 1993年)を務めていたが、協会自体の変質と学者肌の編集態度が協会と相容れず、アイヌ文化振興法に対する考えの違いもあって、編集委員を解任される[4]。その後、十数年前の1980年に北海道出版企画センターから刊行した『アイヌ史資料集』が、協会から差別図書であると批判され民事提訴される[5]。この訴え自体は退けられている。ただし、過去の医療情報や警察情報などのプライベートな情報に解説を加えずに復刻したため、アイヌからの反発が大きかった[4]。この反発を河野の変節の一因とする意見もある[4]。 三代続けてアイヌ研究者の家系に生まれた河野だが、若い頃はアイヌ解放同盟の活動に共感し、北海道ウタリ協会の活動にも協力していた。現代におけるアイヌ民族懐疑やアイヌ協会批判の立場であり、的場光昭、砂澤陣、小野寺まさる、小林よしのり等と同じ立場をとっていた[3]。なお、河野の主張は「アイヌの人々の場合も、主体的な帰属意識がある限りにおいて、独自の民族として認識されなければならない」とする日本文化人類学会の研究倫理規定に背いており、史学史以前の研究倫理上の問題と指摘されている[4]。 著書単著
編集
編著
共著
共編
選
脚註
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