江戸三十三観音札所
江戸三十三観音札所(えどさんじゅうさんかんのんふだしょ)とは、東京都区部にある33か所の札所寺院と1か所の番外寺院からなる観音霊場である。現在ではもっぱら1976年(昭和51年)に 江戸三十三観音札所の起源江戸時代、西国三十三所や坂東三十三観音などの観音霊場巡礼が流行した際、既存の観音巡礼を模した新たな札所[2]が各地で設けられた[3]。こうした巡礼路を「写し霊場」と呼ぶ[4][5]。江戸では特に西国三十三所に見立てて、三十三の寺院を選ぶ西国写し霊場が流行した。江戸時代の江戸市中周辺には記録に残っているだけで20種もの西国写し霊場が存在していたとされる[6]。これらの霊場は、江戸時代後期天保年間の成立と推定される柳亭種彦の著作『足薪翁記』[7]に「昔、京順礼・江戸順礼といふことありときけり。是〔これ〕は富家の婦女、又〔また〕茶屋者、風呂屋物などとなへし〔称えし〕売女の類、衣装に伊達を尽くし笈摺胸札[注釈 1]をかけて、実の順禮〔順礼〕の如くいでたち、洛陽三十三所[注釈 2]の観音へまうつる〔詣ずる〕を京順禮〔京順礼〕と云〔いう〕なり。江戸順禮〔江戸順礼〕も又是におなじ」と見えるように、「幕府の厳しい規制下で自由に衣装本能を謳歌できない都市女性が近くの巡礼に仮託して、風俗の解放を求めたもの」とも言われ(近藤隆二郎の説)[3]、京都で流行した後白河法皇選定と伝わる洛陽三十三所観音霊場巡礼をもととし、信仰よりもレジャー、ファッションの一環としておこなわれていたものであった。これら数々の江戸札所には神仏習合のものもあり、たとえば「江戸西国三十三所」では、「ここから眺める不忍池の景色が、石山寺から眺める琵琶湖の景色に似ている」という理由で上野公園の五條天神社(穴稲荷)も札所の一つに数えられていた[11]。 現行の江戸札所もこうした江戸時代の観音巡礼の一つに起源を持つとされており、元禄年間設定の観音巡礼には「武蔵三十三箇所」「江都古来三十三箇所」の2つがあり、現在のものがどちらを起源とするのかはわかっていない。田上善夫は現在の「昭和新撰江戸三十三観音札所」の前身を寛文8年(1668年)選定の「江都三十三所観音」としている[12]。 現在の江戸札所には3番の大観音寺、5番の大安楽寺など明治時代の創建、さらに昭和26年(1951年)開創の世田谷山観音寺といった近現代に作られた寺院も含まれており、田上によれば寛文年間の「江都三十三所観音」に示された33か所中の19か所が廃絶し、昭和新撰時に新たに加えられている[12]。なお、平成4年(1992年)には30番札所が入れ替わっている[13][注釈 3]。下記の一覧は、この昭和新撰のものを記載している。 昭和新撰 江戸三十三観音札所一覧
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目 |
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