永山城
永山城(ながやまじょう)は、大分県日田市丸山町にあった日本の城。小川氏築城時は丸山城(まるやまじょう)と呼ばれた。別名、豆田城(『豊城世譜』[1])、月隈城(つきくまじょう)ともいう。この「月隈城」の呼称については、『豊後国志』巻之八にみられる[2]。以下は、日田陣屋を併記する。 概要永山城は、市街地北部にある三隈三山の一つである月隈山(つきくまさん)に築かれた平山城である。全容については不明な部分が多いが、山頂付近の本丸跡に川石を用いた丸石の野面積みの石垣と算木積みの隅を持つ石垣が残る。 1601年に小川光氏によって築かれ丸山城と名づけたといわれている。石川氏入封後に城の改築と城下町の移転などが行われたが、1633年中津藩の預かりをへて、幕府直轄領となった。初代代官に小川氏が入城し同代官によって1639年に廃城とされ、日田陣屋が置かれた。西国筋郡代役所となったのは江戸中期、揖斐政俊の時である。この郡代役所は、最後の西国筋郡代となった33代代官窪田鎮勝が幕府歩兵部隊の「制勝隊」を解散する明治元年まで続いた。 後に、日田県知事松方正義(後の第4代総理大臣)によって旧三の丸に知事官邸と日田県庁舎が設けられ大分県に合併されるまで政治の場とされた。日田県の廃県後、旧三の丸の半分が日田山林学校半分が日田区裁判所となり裁判所移転後に月隈公園として整備され、城山の石垣や水堀の一部などが残る。陣屋跡(大手門堀沿い)は住宅地となって遺構は残っていない。2016年4月の熊本地震で城山部分の石垣が崩壊。被害状況は大分県内の文化財では最大規模となった[3]。 歴史・沿革1601年(慶長6年)に小川光氏が丸山城と称して築城したという。このとき、城の東に十二町村(じゅうにちょうむら)より商家を移し、中津へ至る街道を伴う南北2筋の道を通し、街を開いたとされる。 1616年(元和2年)に譜代大名の石川忠総が美濃大垣城から移封。丸山城を改築し永山城と改め、城下であった丸山町を現在の位置に移し、豆田町に改名した。1633年(寛永10年)に中津藩の預かりとなる。
明治・大正年間
平成年間
熊本地震(2016年)
構造山頂に本丸、中腹に二の丸、麓に三の丸があり、三ノ丸の南中央に大手虎口が開かれていた。南を表、北を背面としていた。建物があったかなどは不明で、本丸の表門と考えられている虎口脇にある石垣は天守台ともいわれ、本丸奥にある高台も天守台ではないかという説がある。山頂本丸表虎口付近の川石(丸石)を使用した野面積みの石垣が現存する。2009年に日田市が行った公園整備計画にともなう試掘調査によると、本丸表門石垣は1680年代に築かれたものであると推定され、城跡の北西麓からは細川綱利時代のものと推定されている川石の石垣と土塁が出土し、北西斜面中腹からは虎口石垣が出土している。 現在、三ノ丸にかかる石橋や切込み接ぎの石垣は、県庁と知事官邸を建てたころに建造されたものといわれている[9]。 日田陣屋日田陣屋(ひたじんや)は、日田代官所もしくは永山布政所(ながやまふせいしょ)という西国筋郡代役所である。ただし、永山布政所という名称については、昭和11年(1936年)以降に千原豊太が記した「豊後日田永山布政史料」に初めて記述が認められるもので、江戸期では一般に日田御役所と呼ばれていた[4]。 構造陣屋は、追手口跡より東の堀端の現在道路や住宅地となっている一角にあった。郷土史料[9]には、堀から天満宮旧境内裏手と呼ばれるところまで長屋があり、敷地北東の隅に本陣(奥向)、中央に役所があったとある一方で、山田家(隈町山田家)所蔵の「御陣屋平面図」では、南ほぼ中央あたりに長屋門形式の正門と門番詰め所、陣屋の西側と堀側である北側に小屋や長屋と呼ばれる役宅が建ち並び、その中央に役所と奥向を併設した大型の建物が描かれている。『太宰管内志』によれば、本陣(奥向)は寛永年中に日隈城から移築されたものであるという[9]。敷地の北東隅は家相に基づいて鬼門除けのために入隅としている。 歴代代官
脚注
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